日劇ミュージックホールOG会(其ノ一)

この六月十五日に日劇ミュージックホールのOG会が開かれ、過日、小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんと面識を得たわたしも受付や記録報告などの手伝いを兼ねて参加させていただいた。

まずは当日の読売新聞に「ミュージックホールダンサー初のOG会」という見出しの紹介記事が載っているので採録しておこう。


〈劇作家の寺山修司や演出家の蜷川幸雄らも参加し、多彩なショーで人気を集めた日劇ミュージックホール(東京・有楽町)が幕を閉じて三十年。スターだった小浜奈々子さんらのよびかけで初のOG会が十五日に東京で開かれる。
ミュージックホールは一九五二年にオープン。豪華なレビュー・スタイルのヌードショーが売り物で、ショーの合間にはトニー谷渥美清ら人気コメディアンが出演した。文化人にファンが多く、構成・演出には谷崎潤一郎三島由紀夫といった文豪のほか、寺山や蜷川さん、石原慎太郎さんらが名を連ねた。
ラインダンスで知られた日劇ダンシングチームからミュージックホールに転身した松永てるほさんは「ヌードになったほうがいい曲で踊れた。円形ステージでせり上がって真っ赤な照明を浴びて髪を振り乱して踊りたかった」と話す。
八一年に再開発で日劇ビルが取り壊されると、ミュージックホールは日比谷地区に移転したが、娯楽多様化のあおりで客足が減り、八四年に解散した。ダンサーはばらばらに活動するようになったが、二0一二年に小浜さんがかつての仲間と集まった際に「OG会をやりたい」と話が出た。「デートする暇もなく踊りに打ち込んだ。私の青春がそこにあった。会いたい人がたくさんいます」と小浜さん。
OG会に合わせて江戸川大学メディア・コミュニケーション学部准教授の西条昇さんら研究者は、ミュージックホールの文化・歴史研究会を作り、資料の収集も進める。西条さんは「日劇は語られてもミュージックホールが語られる機会は少ない。皆さんが元気なうちに記録を集めたい」と話している。〉


この日の会の企画をしたのはN氏、そして新聞記事にあるように昭和三十年代前半から四十年代後半にかけてのトップスター小浜奈々子さんが中心となって呼びかけた。
これに応えて小浜さんの後を継いだ松永てるほさん、日比谷の劇場の掉尾を飾った岬マコさんをはじめ小鳩美樹、西崎ぼたん、牧京子、若山昌子、南まみ、加茂こずえのダンサーのみなさん、また歌手としてゲスト出演した森サカエさんと演出家の庄野正紀氏がこの日、会場のパセラリゾーツ銀座店に集った。
司会は『ニッポンの爆笑王100』『東京コメディアンの逆襲』等の著者で、上の記事にある西条昇氏、カメラマンは都築響一氏(写真集『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第二十三回木村伊兵衛写真賞受賞)という豪華スタッフだ。

開宴まえの懇談会ではそれぞれの近況や思い出話などいろいろな話題が出たが、まだテープではなくバンド演奏で踊っていたころのミュージシャンの思い出(渡辺貞夫もここで演奏したことがあったそうだ)や「セリを降りたところに電話があり、和っちゃん先生から電話がかかると小助さんを背負って(泉和助、空飛小助いずれもミュージックホール専属のコメディアン)よく伊吹マリさん(ミュージックホール初期のスター)がやっていらしたお店へ飲みに行ったのがなつかしい」といったバックステージの話がわたしには印象的だった。
森サカエさんが昭和三十三年にミュージックホールのオーディションに合格して出演したときの感激と新聞紙上で賛辞をいただいたときのうれしかったことを語れば、あるダンサーの方から、おなじころ、あるテレビ番組で劇場と変わりないだろうとトップレスで出たところ、テレビ局はブラをつけるのは言わなくてもわかっているはずと思っていて、もちろん当時はすべてナマ番組なので大失態といった珍談が飛び出した。
そこへはじめ参加予定だったのがスケジュールの都合で来られなくなったカルーセル麻紀さんから事務局のK氏の携帯に電話がかかってきて、マイクを通してみなさんへのごあいさつと次回はぜひ参加しますとメッセージが寄せられた。そのとたんに「カルーセルのお姉さん、会いたかったわ!」とどなたかが口にしたところ「あの人、お兄さんじゃないの?」と半畳が入って一同大笑い。
絶好調のノリとなったところで最後に演出家の庄野正紀氏、ダンサーの方々にとっては「先生」が立たれて「みなさんお元気で、こういうかたちでお会いできてほんとうにうれしく、感に堪えません」としみじみとあいさつされ、聞く者の胸を打った。