小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんとの歓談

大学生のころ長期の休みの終わりに地方の実家から新幹線で上京すると、東京駅へ着く手前で日本劇場が目に入ってすこしばかり浮き立つ気分になったものだった。いま有楽町のおなじ場所に建つマリオンを見てもそんな気にはならない。
早いものでその日劇がなくなってから三十年以上経つ。
昭和八年(一九三三年)十二月に開場したこの劇場は映画の封切館、日劇ダンシングチーム(NDT)のフランチャイズ、また歌謡ショーや喜劇人まつり、ウェスタンカーニバルなどの舞台となった「娯楽の殿堂」だった。昭和十六年の紀元節の日には「歌ふ李香蘭」の観客が劇場の周囲を七周り半にわたって取り巻いたとか。気分が浮き立つにはこうした事情がある。
日劇の五階には小劇場があり、ここが日劇ミュージックホールとして開場したのが昭和二十七年のことで、舞台ではパリのリドやムーランルージュのようなトップレスのダンサーによる華麗なショーが演じられた。「娯楽の殿堂」のなかでも別格の「ヌードの殿堂」であり、またコメディアンの登竜門としてトニー谷渥美清八波むと志立川談志コント55号といった錚々たる人たちが出演した。
わたしが「すべて乳房からはじまる」というミュージックホール開場二十周年と銘打たれた舞台を観たのはまもなく大学の四年生になろうとする昭和四十七年の一月か二月のある日のことで、華やかで美しい舞台とあでやかなダンサーたちに魅了されて、ミュージックホールっていいなあ、これからも観続けていきたいなと感じ入った。
じつは大学に入ってすぐのころ一度来ていて、しかしさほどには思っていないから、あの日のステージはそれだけ魅力に富んでいたと思う。
このときのトップスターは小浜奈々子で、高校生のとき「平凡パンチ」か何かでアンジェラ浅丘とともに知った名前だったので「オッ!」だった。のちに「すべて乳房からはじまる」は昭和三十年代なかばからトップの座にあった彼女の最後の舞台だったと知った。斯界の大スターの引退の前にかろうじてまにあったというわけだ。
ちなみにそのあとを継いだのが松永てるほと朱雀さぎり(写真中央、故人、小浜奈々子さんの従妹)、そして掉尾を飾ったのが岬マコだった。

あのとき買ったパンフレットを開くとさいしょに小浜奈々子、つぎの頁に松永てるほと朱雀さぎりが並んだカラー写真があり、若手の岬マコはまだモノクロ組の一人である。

それからわたしは二か月に一度(一回の公演期間は二か月だった)は劇場に足を運ぶようになったが、やがて一年ほどで、大学卒業と同時に帰郷して就職したから以後は上京したときだけしか接する機会がなかった。
昭和五十六年(一九八一年)日劇は老朽化のため取り壊されたが東宝のドル箱だったミュージックホールは日比谷の東京宝塚劇場の五階に移転して生き延びたものの、地の利の悪い日比谷での観客動員は有楽町にあったころに及ばず昭和五十九年三月閉場にいたった。
こうして断続的ではあれ十年あまりにわたりご縁のあった劇場は消えた。
書画骨董をものする技量もなければ味わう素養もなく、仏像にありがたさは覚えても鑑賞する感性を欠くわが美学の第一は女性美であり、最高にショーアップされた女性の美しさを追求し表現してきた劇場の消滅は残念というほかなかった。
閉場は惜しみてもあまりあるけれど、団菊じじいのそしりを免れないのを承知で言えば、いま振り返るとあらためて眼福にめぐまれたものだと思わずにいられない。
松浦静山甲子夜話』に、若いころ両国に納涼に出かけ、隅田川に浮かぶ大小の屋形船で繰り広げられた弦管の音や娼妓の舞や水に映った燈の光を回想したくだりがあって「年老たるは悲むべけれども、昔の盛なるを回想するに、かヽる時にも逢しよと思へば、亦心中の楽事は今人に優るべき歟」と詠嘆しているが、このくだりは自分のいまの気持と重なる。
     
おどろいたことに、上に述べたわたしの観劇体験を知る方から、近く小浜奈々子さん、松永てるほさん、岬マコさんとごいっしょする機会があるのでよかったらいらっしゃいませんかとお誘いがあった。
これまではもちろん、これから先もあるとは思えない超弩級の青天の霹靂。
にわかには信じられないほどありがたく、茫然として何をする必要もないのに狼狽して何をしてよいやらわからず、ようやく、さておく何もない無職渡世なのに、何はさておいてもまいりますとお応えしたあと、しばらくは心拍数が増し、その夜はめずらしくひどく寝つきが悪かった。
四月二十六日、いよいよ拝眉の当日である。
お誘いのあった日の驚天動地はこの日、羽化登仙と化して地に足のつかないまま六本木のアマンドへ行くのに千代田線に乗り日比谷駅日比谷線に乗り換えようとしていたのが、気がつけば車輌は日比谷を通りすぎて霞ヶ関へ向かっている始末で、さいわい霞ヶ関でも乗り換えられるからよかったものの、ここも通過していたらえらいことになっていた。
やがてアマンド到着。それなりに自己紹介の言葉を考えていたけれど三人を前にすると羽化登仙に緊張がくわわり、なにやら形容しがたい精神状態に陥った。素顔は地味だけど舞台化粧をすると華やかに変身するタイプもいるらしいが、素から華やかなオーラのある人たちだからわたしがこうなって当然ではある。
三人の出会いは久しぶりだそうで、とくに小浜さんと岬さんはおよそ四十年ぶりの再会とおっしゃっていた。
コーヒーを飲みながら懐旧談や関係者の消息をうかがうなどこのうえない貴重でたのしいひとときを過ごした。
わたしも名前を知る方がいま鬱状態にあるそうで、小浜さんが、若いときに狭く限られた世界しか知らないから、いろんな人と話をして人間関係を豊かにしないと閉じこもりや鬱になったりするわよ、てるほちゃんもマコちゃんも気をつけてねと先輩らしく声をかけていた。表面は派手に見えても人知れぬ気遣いや制約があるのだろう。
それにしてもあの日客席で見とれていた大学生が、四十年あまりのちに舞台で踊っておられた三人の方とこうしてお目にかかって親しくお話しできるなんて、人生は不思議で、素晴らしい。

お別れしたあと微醺をおびて帰宅していると、杜甫が友との出会いのよろこびを詠んだ「贈衛八処士」(衛八処士に贈る)の冒頭「人生相不見 動如参与商」の詩句が心に浮かんだ。
別れた友との再会はややもすればおなじ天空に同時に現れることのない「参」(オリオン座)と「商」(サソリ座)のように遠く隔たったまま。しかしながら、むかしの観劇体験が新たな感激体験となったきょうはオリオン座とサソリ座がめぐり会ったような一日でしたとわたしはそっと杜甫に語りかけたい気分になっていた。