『わたしの上海バンスキング』

ことし二0一四年二月十六日の朝日新聞紙上で明緒(あきお)『わたしの上海バンスキング』(愛育社)が採りあげられていて「第二次大戦下の上海に集うジャズマンらを描いた音楽劇の傑作『上海バンスキング』。この作品を生んだ人々と時代を、『遅れてきた観客』である写真家がカメラとペンで追った記録」と紹介されていた。四十歳と著者の年齢を明記したのも一九七九年初演の「上海バンスキング」と「遅れてきた観客」を具体に示しておきたかったためと思われる。

著者の明緒さんは「上海バンスキング」の演出家で主演の一人串田和美さんの奥さんだが、一九九八年に大学を卒業した彼女にとって一九七九年初演のこの芝居は名のみ聞く幻の舞台だった。NHKが放送した博品館の舞台のDVDやオリジナルスタッフによる映画、また吉田日出子が吹き込んだアルバムなどはあっても舞台は幕が閉じれば消えてなくなる。ところが二0一0年「上海バンスキング」が渋谷のシアターコクーンで十六年ぶりに再演されるという朗報がもたらされる。
「わたしは、最高に興奮していた。だって、観ていないのだもの。あの伝説の舞台がこの目で観られるなんて!」
伝説の舞台は期待にたがわぬものだった。
「これか、これが『上海バンスキング』なのか!!!そして『上海バンスキング』の中に、オンシアター自由劇場の全てが、それぞれの役者の人生までもが、溶け合っていた。戦争、恋、ジャズ、麻薬、上海、結婚、前借り、役者、仲間、芝居・・・。
まるで、“この世の全てが描かれた、一枚の巨大な動くタペストリー”を見ているかのようだった」
そして彼女は「上海バンスキング」を過去にさかのぼる旅に出ようと決心する。
串田和美の小学校時代にさかのぼったり、六十年代後半の演劇環境に目を向けたりと、その旅は時間軸を長くとり、視野を広くして、あせらず、ゆっくり、また、じっくりとこの芝居が生まれる過程を捉えようとするものだった。
串田が斎藤憐とはじめて出会ったのは成蹊学園の小学部三年生のときで斎藤は二歳上だった。のちの「上海バンスキング」の演出家と作者との出会いである。串田や斎藤が吉田日出子とともに俳優座をやめて「アンダーグラウンド自由劇場」を設立したのは一九六六年のことで、著者はアングラ演劇運動のなかでの三人の軌跡を追い、それぞれの個性やものの見方、演劇についての考え方を学んでゆく。
やがてバンスキングの誕生。このシーンでの串田と斎藤の対比が興味深い。
串田が作詞した主題曲「ウエルカム上海」の一節に「ああ、夢が多すぎる」とあり、この詞をはじめて読んだとき斎藤は「夢ってことばはよく歌詞に使われているけど、“夢が多すぎる”ってのはいいねえ。ちょっと皮肉っぽくてさ。“あの街には、人を不幸にする夢が多すぎた”ってセリフを入れよう」と語ったという。こうして「同じ“夢が多すぎる”ということばでも、串田は肯定的な意味合いに、憐さんは否定的に捉える。ふたつの異なる個性」の融合があったと著者はみる。
ほどなくして戯曲は完成し、劇団員が集まってはじめて本読みをしたときのことを笹野高史は「終わりまで読んで、みんなしーーーんとしちゃったんだ。おもしれえ!!!って」
その「おもしれえ!!!」の二0一0年の再演。稽古から最終の舞台までの様子を本書は写真と文でいきいきと伝えてくれる。
翌年十月十二日作者斎藤憐が七十歳で死去。十二月二十五日の座・高円寺での偲ぶ会では自由劇場のメンバーたちがジャズを演奏して送り出した。
写真家の本だから、二十一世紀のバンスキングの舞台や楽屋の写真がたくさん収められている。吉田日出子のアルバムを聴きながら井出情児『貴方とならば―上海バンスキング上演写真集 』(一九八四年)の写真を眺めるハッピーな時間にあらたな写真群がくわわったのがうれしい。