六義園散策

上野の喫茶店へ行くのに不忍池を通る。桜の季節は人出が多く、弁天堂の参道を抜けるのにひと苦労だ。先年ポケモンGOが登場したときもしばらくは同様もしくはそれ以上の人出で、はじめ弁天堂の社務所は境内でのしかるべきマナーを呼びかけたがさほどの効果はなく、とうとう禁止とした。弁天堂とポケモンとの衝突である。
徒然草』に遠い昔のポケモン騒動を思わせるくだりがある。
「応長のころ、伊勢の国から女が鬼になったのを引き連れて都へ来たということがあって、当時二十日ばかりというものは毎日、京白川あたりの人が、鬼見物だというのであちらこちらとあてもなく出歩いていた」
「昨日は西園寺に参ったそうであるし、今日は院(上皇の御所)の御門へ参るであろう。今しがたはそこにいたなどと話し合っていた(中略)貴賎みな鬼のことばかり噂して暮らした」。(第五十段佐藤春夫訳)
鬼騒動とポケモンと、いつの世もおなじ感はあるが、昔の人々もマナーが悪くて場所によっては出入り禁止の措置が取られたかどうかはわからない。
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最近よく二度寝をする。ささやかなしあわせのひとときで、そのうえきょうは観劇に行った夢が添付されていた。芝居は「上海バンスキング」。先日BS放送の番組表で一九九一年の舞台が放送されると知って録画予約したのがさっそく夢に反映されていた。
二度寝を手許の歳時記にみたが立項されていなかった。季節を選ぶものではないけれど、やはり春の季語としたい。ついでに春眠をみると「朝寝は寝足りてなお床を離れずうつらうつらしている状態をいう。そこで見る夢が、春の夢」とあった。(『今はじめる人のための俳句歳時記』)
「春眠のつゞきの如き一日かな」(高木晴子)。
二度寝とともにうれしいのがうたたねで、夢とのご縁では「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたたねの夢」という『新古今和歌集』に収める式子内親王の有名な和歌がある。二度寝もうたたねも「いとど短き」と感じるくらいを過不足なしとしなければなるまい。
先日「人生タクシー」(ジャパール・パナヒ監督)というイランの映画でうたたねよりも少しばかり長く寝てしまった。評価の高い作品ながらアクション娯楽映画を主とするわたしは適応できなかった。でも気持よかったよ。
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駒込六義園を散策した。入園料はつれの三百円に対しこちらは六十五歳以上なので百五十円。嬉しくはあるが複雑な気持だね。
外国人観光客もいて、ふと自分がヨーロッパでマロニエプラタナスの樹々の木漏れ日や咲き誇るライラックの花に感じるとおなじ気持をこの日本庭園に感じるのかなという気がした。

ここは徳川五代将軍徳川綱吉側用人だった柳沢吉保が、自身の下屋敷として造営した大名庭園。この人について詳しくは知らないけれど、シンクタンクとして荻生徂徠を抱えていたことだけで偉かったのだろうなという気がする。徂徠が徳川吉宗に謹呈した『政談』はわたしにとって江戸時代を知るための最高のテキストである。
落語の「徂徠豆腐」は芝増上寺の近くに塾を開いた徂徠が、貧しくて食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられた噺で、それなりに事実が反映されているとか。そうした折り抜擢したのが柳沢で、徂徠は学問を講じまた政治上の諮問に応えた。その実力は言うまでもないが、登用した柳沢は慧眼の士だった。
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BSスカパーで一九九一年シアターコクーンでの「上海バンスキング」を見た。これまでNHKが三度放映していて(さいしょの放送での余貴美子のリリーや鶴田忍の方さんが懐かしい。小日向文世がまださほど重くない役で出ていた)いずれも貴重なものだが、フィナーレとそのあとの劇場ロビーでの歌と演奏が一部カットされているのが惜しまれたのにたいし、今回は完全収録!かつて放送されたものと思われるが、いずれの局が収録したのだろう。大感謝である。
劇中バクマツ(笹野高史)の友人白井中尉(大森博史)が正岡まどか(吉田日出子)に、ソ満国境へ赴任するにあたり一曲歌ってほしいとリクエストする。
「何にしようかな」
「『暗い日曜日』はだめですか」
「ダミアの、いいわよ」。
昭和十五年秋。仄かに慕いあう、人妻まどかと白井中尉の別離の場面はこの芝居の名場面のひとつだ。
先日読んだトマス・キニーリー『シンドラーズ・リスト』によると一九三〇年代に大ヒットした「暗い日曜日」に影響されて自殺者が続出したためにハンガリーポーランドチェコスロバキアの政府は禁止措置をとろうとしたという。やり場のない思いをこの歌に託して死んだナチスの親衛隊員もいた。一八九九年生まれのハンガリー人の作曲者シェレシュ・レジェーも一九六八年に投身自殺をしている。
白井中尉が志願してソ満国境へ赴くのも日本の行く末への絶望、自殺行であり、『シンドラーズ・リスト』を読んだことでこの歌が挿入歌となった背景についてよく理解できた。
振り返ると出張や旅行の機会をとらえて東京、京都、神戸へとこの芝居を追っかけた頃はまだ三十代前半だった。今後追っかけをする演目があるとは思われないから生涯唯一となる。「上海バンスキング」と同時代でいられたことはわが人生のしあわせのひとつだ。
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ことしの東京の開花宣言は早かったが、そのあと寒い日が多く、寒の戻りがだいぶん続いた。北海道ではライラックの花の咲くころの寒の戻りをリラ冷えと呼んでいる。渡辺淳一の小説『リラ冷えの街』は未読ではあるが、書名でよい言葉を教えてもらった。いまこの記事を書いている五月の後半がその季節にあたる。

昨年六月にモスクワとサンクトペテルブルクを旅した。ちょうどリラの花咲く季節で、美しい花々と仄かな匂いに心がなごんだ。そこで思うのだが、ロシアにもリラ冷えといった言葉はあるのだろうか。長かった冬だから、そんなこと言っちゃいられないかもしれないな。
南国土佐の生まれだからライラックという洗練された言葉の響きにあこがれを覚えても花にはとんとご縁がなかった。別称のリラは戦前の歌謡曲で知った。
「リラの花散るキャバレーで逢うて、今宵別れる街の角」(上海の街角で)
「濡れし瞳にすすり泣く、リラの花さえ懐かしや」(緑の地平線)。
といったことをTwitterでつぶやいたところ〈はーい、札幌在住です☆ライラックと言えば、歌人吉井勇の歌碑が大通公園にあります。この短歌、大好きなんです。「家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」〉とのおたよりを頂戴した。吉井勇は故郷、高知に住んだことのある歌人だが、わたしは祇園やお酒の歌がもっぱらでリラの短歌は知らなかった。好きな歌人とリラとの取り合わせがうれしい。