『不眠の森を駆け抜けて』

ロシア文学者から脚本家に転じて「また逢う日まで」や「夫婦善哉」「雪国」などの名作を執筆した八住利雄の家では、長男の八住利義が中学生のころから父のラジオドラマの代作をやっていたという。「ヤスミ、手で書く、足で書く」といわれた多作の父の多忙を助けていた八住利義、のちの白坂依志夫がどれほど才気煥発な少年だったかがうかがわれる。
やがてこの息子は早大文学部に進学したが中退して一九五五年(昭和三十年)大映から脚本家デビューを果たして若々しい感性と才能を誇り、その後フリーとなり数多くの映画、テレビドラマ、舞台のシナリオを書いた。
映画では「青空娘」「暖流」「巨人と玩具」「大地の子守唄」「曽根崎心中」など増村保造監督とのコンビによる諸作品や自身も出演した須川栄三監督『野獣死すべし』などがよく知られている。そうそう公開当時物議をかもした市川崑監督「東京オリンピック」にも脚本陣の一人として参加していた。
現在八十歳を超える白坂氏だが、その若き日のエッセイから昨年二0一二年末の篠田正浩監督との対談にいたる文業が集成され本年四月に『不眠の森を駆け抜けて』(ラピュタBOOKシリーズ)として刊行された。

高校時代から三島由紀夫とつきあいがあり、同世代の大江健三郎石原慎太郎寺山修司谷川俊太郎武満徹など才気あふれる人びとと交遊を重ねた。
つとにプレイボーイとして知られ、これまでにも女優たちとの交際を赤裸々に綴って話題を呼んだことがある。
「『今夜、主人、演奏会で留守なの。ウチへ寄っていかない?』越路さんの、なんともいえない甘い外国製の香水の匂いが私をクラクラさせる」なんてね。「越路さん」はコーちゃん、吹雪さんです。念のため。
日本映画に新しい波を起こした一人だから映画論には一家言あり、批評の言葉はきっぱりとして明確だ。それは「美味いものをウマいと賞め、まずいものをマズいと言いきることに、相当な勇気を必要とする時代」への異議でもある。
映画界の内情にも詳しく、小さいときから父親とその周辺の映画人を注意深く観察しているからエピソード、ゴシップにはこと欠かない。大学生のころ、喫茶店に坐る美女にびっくりした友人が氏にそれを告げ、どれどれといっしょに見に行ったところ、なんだ有馬稲子じゃないかと友人に説明してやり、喫茶店を出ると人目をはばかるように市川崑がそこへ急いでいた、といったふうに。
こうした人が書いたエッセイ、人物論、映画論、回想記が面白くないはずはありません。おまけに関係した映画のポスターやスチール、プライベートの写真が収められていて、読んでよし、見てよしの一書である。
装丁は著者にふさわしいおしゃれなもので、編集はバラエティブックふうな構成で気が利いている。その一環として白坂自身ならびに小関太一、高取英、寺岡ユウジによる脚注がありここを読むだけでもたのしく、ためになる。
たとえば「後年は映画監督より、TVで怒鳴る人の印象が強い」(大島渚)、「木下組に付く助監督は(中略)美青年が多く、鈴木清順のようなむさい人間は毛嫌いされた」(木下恵介)といった具合。
あるいは石堂淑朗「『未完の大器』といわれ将来を嘱望された脚本家。下手の横好きで役者やコメンテーターに手を出したため、未完のままに終わる」。橋本忍「映画を撮ったことで、輝かしいキャリアを若干曇らせてしまった超一流脚本家」。いずれも辛口の筆致だが「下手の横好き」が人生模様を味わい深くしているとも読める。
白眉は人物論で、批評における明確な言葉がユーモアと哀歓に彩られ、回想やゴシップがときに作品論に及ぶ。たとえば、著者は市川崑有馬稲子の不倫の期間、和田夏十は夫への作品提供を拒否し、夏十没後の市川作品にはかつての活気が少しずつ消えていったと見る。
市川崑和田夏十有馬稲子によるもうひとつの市川崑物語、おなじく山口果林の魅力とともに綴られた安部公房物語などいずれも一読忘れ難いがそれ以上に著者本人がお忍び旅行の写真を附けて語る左幸子との話はオッ!だ。
「国体にまで出た鍛えた身体と演歌歌手のバタヤン(田端義夫)に散々弄ばれて覚えこんだ性技で、左さんは私を何度も頂点に・・・・・・」
ついでながらこのエピソードは二00八年刊行『シナリオ別冊 脚本家白坂依志夫の世界「書いた!跳んだ!遊んだ!」』でも触れられているが「流行演歌歌手T・Y」と名前は明かされていなかった。
左幸子は東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)の卒業生で体育の先生をしていた。彼女と女、おんな、またオンナの人バタヤンとはおなじ芸能界とはいえだいぶん離れたところにいる印象だが、田舎の道とは反対に男女の仲は遠くて近い。
全共闘運動の余燼くすぶるころ、大学生だったわたしは当時新左翼学生運動の教祖的存在だった歴史家羽仁五郎先生の講演を聞いたことがある。なかで「男はいい女を嫁にしなくてはいけないな、左幸子のような」と当時息子羽仁進の細君だった彼女を大絶賛していた。もちろん息子の嫁とバタヤンの関係など先生の念頭にはなかっただろう。