「オース!バタヤン」

ことし四月二十五日に九十四歳で亡くなった田端義夫の遺産となった映画である。観ているうちにこうして残してくれた製作のアルタミラピクチャーズならびに田村孟太雲監督はじめスタッフ関係者にありがとうを伝えたい気持でいっぱいになった。

一九一九年(大正八年)一月一日伊勢松阪に十人きょうだいの九番目として生まれた田端義夫は三歳のとき父を亡くし母、姉妹とともに大阪に出て鶴橋の兄を頼りここで育った。赤貧の生活はつづきトラコーマに罹患したが治療は受けられず右目の視力を失った。学業は小学校三年生のなかばで中退している。
歌へのめばえは母とともに夕焼けを見ながら歌った「赤とんぼ」だった。やがて丁稚奉公をするうちにディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し歌手にあこがれるようになった。十九歳のとき新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場して優勝したのをきっかけにポリドールからデビューをはたした。

二00六年田端は困窮の少年期を送った鶴橋の母校の小学校でコンサートを開いた。「オース!バタヤン」はそのときの模様を中心としたドキュメンタリーだ。小学校の体育館を会場とした簡素なステージで浜村淳の司会のもと進行するバタヤンの歌とトーク、そこにおなじ曲を歌うかつての映像が重なり、ヒットした当時の世相が語られ、さらに家族(奥さんと娘さん)、後援会関係者、関係の深かった立川談志白木みのる寺内タケシ小室等、菅原都々子といった人びとの証言がくわわる。

田端義夫は生涯にわたり吹込み当時のキィを維持して歌った。おなじキィで歌えなくなったら歌手はやめると語っていた。鶴橋における八十七歳の歌声にも張りがあり、もちろん全盛時のときとはおなじでないけれど、しっかりしたもので、年齢から予想される衰えとはほど遠い。発声練習と節制の賜物で身体の芯も強かっただろう。

そのいっぽうで女性方面での節制の努力は欠いた。司会の浜村淳が開口一番「さっきも楽屋で田端さんとお話したんですけど、もう(小指を前に出して)これのことばっかりでんねん」と言う。じっさい女、女、女の人だったそうだ。
戦時中の慰問体験を語ったあとで「なんで人間どうし殺し合いせなあきませんねん。絶対こんなことしたらあかん。夫婦の戦争はな、別の女とくっつくのやから、ときにはよろしい」(ネットで調べると三回離婚つまり四回結婚している)といったふうに笑いをとるのはもっぱら自身をネタにした艶聞である。
女といえばかつてのそのステージには赤線の女たちが客席最前列に陣取ったという。辛酸を嘗めた人生経験をもつ歌手の歌はそうした女性の琴線に触れた。
わたしのばあいは、敗戦による外地からの引上げ風景につづいて歌われた「かえり船」に泪がにじんだ。

最後になったが鶴橋でのショーの構成も担当している浜村淳の司会にふれておかなければならない。大阪弁を活かした軽妙洒脱なおしゃべりが、曲の紹介になると一転して口調をあらためる。そのたたずまいはメリハリの利いた活弁を聞かせた無声映画の弁士が司会に転じた姿を想像させた。アナウンサーでは出せないだろう絶品ものだ。
(六月四日テアトル新宿。写真は同劇場に飾られてあったものです。)