むねの清水あふれて・・・

認識不足という言葉は昭和初期の流行語だったという。ある噺家がこれを「君はどうも認識不足だね」「ナニ、それほどじゃァありません」と使ってずいぶんと高座で受けた。この話をのちの古今亭志ん生、当時の柳家甚語楼が聞き「君はどうも認識不足だね」「おだてるない」とやったところ「ナニ、それほどじゃァありません」とは比較にならない喝采ぶりだった。宇野信夫『おぼえ帖から』」より。
認識不足というマイナスの言葉を「ナニ、それほどじゃァ」とプラスの言葉として受ける面白さは「おだてるない」に較べるといささか遠慮深い。換言すれば志ん生は「ナニ、それほどじゃァ」といった慎ましさから大きく飛翔してみせたわけで、ここにこの噺家の発想と魅力が表れている。
志ん生の「寝床」では、見台を持った旦那が義太夫を唸りながら番頭を追いかけ、蔵の中に飛び込んだ番頭に窓から語り込み、番頭はとうとう店から出奔してしまう。「それでいまどこにいる」「ドイツにいる」でさげ。
若き日に「おだてるない」と大きく翔んでみせた姿勢はこの「寝床」にも通じている。
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「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」。
「みだれ髪」のなかの一首だが、明治の世にあって「やは肌」に触れもせずに道を説いたりする君を手厳しくたしなめたり、血のたぎる肉付けされた愛として乳房をこのように詠んだ歌をみると、あらためて与謝野晶子って偉かったんだなあと思う。

「むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子」。
心は泥にまみれ、肉体は汗にまみれ清水は濁りようやく罪の子である。たまたま訪れたマディソン郡で出会った人妻と一夜をともにして、それが永遠の愛と称するのは御同慶だが、清水は濁ってはいないんじゃないかなあ。
翻って、泥まみれ、汗まみれの果てに、君と我ともに罪の子となった性愛として思うのは阿部定、石田吉蔵の二人で、これに較べれば、マディソン郡の一夜など満月の前のホタルのようなものじゃあござんせんか。与謝野晶子の『みだれ髪』の性愛をお定さんは肉体で顕現させたのである。
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二00九年に「週刊文春」に連載した記事を集成した小林信彦『森繁さんの長い影』を読みはじめたところ、冒頭に「二00九年という年は、大きな政権交代があったことで記憶されるようになると思います・・・・・・新しい与党がズッコケ気味なのが心配です」とあり、時の流れと政治の潮流の変化をあらためて感じた。
政治の世界には多事争論にもとづく厳しい競争と軋み合いがあったほうがよいと考えているので与党の強固な安定には心配が先に立つけれど民主党政権の体たらくを思えば、これはしかるべき結果であろう。相手があり情勢の変化がある。そのなかでマニフェストに掲げた政策が実現できなかったのは致し方ない面はあっても消費税の増税という後出しの卑怯はひどい。
「民、信なくば立たず」とはよくいわれる言葉だが政治の信を裏切るものにダブルスタンダードすなわち二枚舌そして後出しがある。民主党政権は沖縄と消費税でこの両方をやった。政策がどーのこーの以前の話で、衆議院に続いての参議院選挙での大敗北は卑怯極まりない政党の末路として当然の結果であろう。
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双葉十三郎さんの『ぼくの採点表』にも挙がってない「地獄のガイドブック」をDVDで観た。原作はライオネル・デヴィッドスン『モルダウの黒い流れ』で、一九六一年イギリス探偵作家協会賞を受賞している。
監督はラルフ・トーマス、主演はダーク・ボガード、シルヴァ・コシナ

小説「NIGHT OF WENCESLAS」つまりプラハの広場の夜が邦訳され『モルダウの黒い流れ』となり、映画化され「HOT ENOUGH FOR JUNE」六月にしては暑すぎるとなり、邦題では「地獄のガイドブック」となる複雑さであります。
ロンドンで生活するプラハ出身の青年(ダーク・ボガード)がガラス会社の依頼でプラハに派遣され、ある書類を持ち帰るよう依頼される。金に汲々としている青年は訳のわからぬままに赴くが、チェコの秘密警察は要注目人物として警戒していて、お色気むんむんのシルヴァ・コシナがボガードに接近してという巻き込まれ型B級スパイスリラー。 ワンコイン五百円がうれしい。
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季節外れの話。文藝春秋の幹部社員だった鷲尾洋三が『東京の空 東京の土』に、むかしの東京には雪が多かったと思う、子供のころの記憶では毎年のように一月、二月には膝の上まで埋まるような大雪が降り積もったと書いている。大正期に子供時代を過ごした著者の記憶で、震災前の市電、外濠線沿線の雪景色がことさらに美しかったという。
同書には昭和四十四年の四月十七日にもかなりの降雪があったとある。奥様の手術で著者には忘れられない大雪の一日だった。
わたしにも昭和四十四年は雪の多い年だった印象が強い。この年の二月下旬、前日に降り積もった雪は南国生まれの大学受験生には経験したことのない大雪だった。ちょうど第一希望の大学受験の日で、とちゅう雪道で二三回すべって転んだ。心は急くいっぽう、ここですべるようではあともろくなことはないなあといやな予感に苦笑いした。宝くじには当たらなくてもこんな予測は当たる。案の定、その通りの結果だった。
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日本映画専門チャンネルで「最高殊勲夫人」を観た。東宝のサラリーマンものを一捻りも二捻りもした快作でとても面白い。東宝の社長シリーズが避けたとおぼしい、上役との閨閥づくりや社長夫人に納まった女の権力欲、その係累の出世の段取りなどを描いたコメディにはブラック風味も漂う。

白坂依志夫脚本、増村保造演出の本作はおなじコンビの「巨人と玩具」や「氾濫」に較べよい意味で肩の力が抜けてリラックスしており、そこが上手く作用して二人のコメディの才気が素直に表出されている。
この映画について、東宝の藤本眞澄が「大映でサラリーマンものが撮れるとは。オレの会社のものよりもうまい。チキショウ」と言ったという話が白坂依志夫『不眠の森を駆け抜けて』に見えている。白坂はこのときの藤本眞澄を「震撼したんですよ」と述べているから、よほど口惜しかったのだろう。
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毎週日曜午後十時TBSラジオがオンエアーしている「橋幸夫の地球楽団」の放送開始一周年記念スペシャル「もっとお喋りしナイト」の公開録音へ行ってきた。会場は赤坂のBlitz。
開場を前に入口附近はなかなかの熱気で、九割がたは女性が占めている。係員が二十番ごとに呼び入れるのだが、マイクなしにやっているので聞こえにくく、何人もの方が「聞こえないわよっ!」と係員よりもずっと大きな声で叱咤していて、いやはやたいへんなおばさまパワーだ。公開放送へ駆けつけるみなさん元気いっぱい、六十チョボチョボのわたしたちで平均年齢よりやや下と見たが、圧倒されました。

ゲストについてのアナウンスは一切なかったからそこのところもたのしみで、この日は、橋幸夫岩田まこ都アナウンサーのレギュラー陣にくわえ、五月みどり尾木直樹うつみ宮土理ガッツ石松、菊池和子、北野大、白石康次郎、さだまさしがゲスト出演して、一周年にふさわしい賑わいだった。そうそう別の仕事へ行くからと、慌ただしいなか森昌子が花束贈呈に駆けつけて来てました。
あまちゃん」の幸橋夫じゃなかった、橋幸夫五月みどりとデュエットで「おけさ唄えば」、さだまさしのギターで「無縁坂」、おなじく、さだが橋のために作った新曲「夢の轍」を歌った。七十歳とは思えない若々しい歌声は体力、気力と日常のトレーニングの充実の表れか。
トークでは地球環境問題についての北野大先生の話がとてもわかりやすく、よい教育者だなあと感じた。自然科学についての啓蒙思想家のようでもある。