冷のコップ酒  

寝床にiPadを持ち込みYouTubeで「愛より愛へ」を観た。一九三八年(昭和十三年)に公開された松竹大船作品、監督は島津保次郎
佐野周二高杉早苗カップルは男のほうの親の許しが得られないので家を出て同棲中だ。男は作家志望で女は女給勤めをしている。ある日、佐野の妹の高峰三枝子が兄のアパートを訪ね、高杉に好感を持ち、そうこうするうち親も許して難問解消する。

他愛もない話ではあるが島津保次郎が得意とした昭和戦前のモダニズム風俗の描写がうれしい。高杉早苗高峰三枝子のモダンな洋装は眼福だし、同棲する二人の生活の場であるアパートは当時のおしゃれなアイテムだった。佐野、高杉、高峰が帝国劇場で映画を観る場面ではレニ・リーフェンシュタールが撮ったベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』が上映されていた。
朝の寝床で映画を観るなんてまことに贅沢で、アップしてくれた方には感謝申し上げたい。時間も一時間足らずでベッドで観るにはうってつけの作品。鑑賞後ネットで検索したところ「大衆文化評論家指田文夫の『さすらい日乗』」というブログに、戦後に再編集されたものらしく、かなり短くなっている、との指摘があった。
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いちばん苦手な食べ物は沢庵漬けで、これとても出されれば箸をつける。風邪をひいても熱が出ても食欲はある。記憶にある限り生まれてこのかた食欲がなかったときはない。大食漢ではないけれど何でもパクパク食べるのを自分では長所と思っているが、家族は六十代半ばにもなって味覚の繊細の分からないのははしたないと見ているようで、そう言われれば否定はできない。だから「一度干したソバは、どんなに上手がゆでても、表層をうっすらとおおう水の味がきれない。この舌に一瞬"冷やっ"と来る感触が気になり出すと、どんな上等のソバも、わざわざ不味くして食っているという不信感がつきまとう」といった感覚がわからない。(椎名誠選『麺と日本人』角川文庫所収、高橋治「ウドンがソバを追放した」より)
この程度で干したソバを止すなんてずいぶん繊細な方だ。干したウドンはゆでるのに干したソバの二倍から三倍の時間がかかることを思えば、あたしゃ、ソバに軍配を上げる。ソバとウドン、わたしにわかるのはコシの強さくらいかな。
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椎名誠選 『麺と日本人』を読了。蕎麦についてのアンソロジーは二三読んだ覚えがあるが本書はうどん、ラーメン、そうめんといった麺類全般にわたっているのが新味だ。

なかに噺家のエピソードが点描されている随筆があり、いずれも蕎麦をめぐるもので、やはり落語には蕎麦が似合う。
「暮の、そろそろ、数え日だというのに、志ん生が、高座着がなくって、お祭りの浴衣の上に、誰かから借りた紋つきを着て、出てきたので、びっくりした。たしか、甚五楼といっていた頃だと思う」。
寄席は浅草にあった金車亭。安藤鶴夫「そば・青春」より。当時、安藤鶴夫は法政の学生だった。
もうひとつ山口瞳「浅草 並木の藪の鴨なんばん」より。
著者は並木ではずいぶんいろんな人に会ったと語り、その一人に金原亭馬生がいた。馬生は昼間の中座敷で一人コップで飲んでいた。店は混んでいて相席となると馬生の前しかあいていなかった。見ていると酒だけ飲んで蕎麦は食べずに帰った。
馬生の酒は親父の志ん生ゆずりのものだった。
弟の志ん朝は、親父は、人が酒を断つとか煙草をやめるなんという話を聞くと「どうしてだい?医者がいけないってったのかい?」「いえ、そうじゃないんです。思うことがありまして」「ンなこと思っちゃいけないよ」と語るのが恒だったとインタビュー「仲入り前に」にある。
志ん朝さんが、健康を気遣い酒を少しやめてみたりすると志ん生は「何でやめんだ、ばか。おめえ大地震が来たらどうすんだよ、車にぶつかったらどうする、乗っかってる飛行機がおっこったらどうする、えぇ。好きなんだからこたねえんだ。酒でも何でも好きなようにやったらいい。やめる必要はねえ」と口にした。
理屈は志ん生の言う通りでここまで来ると哲学者か思想家の言のように思えるのだが柳家小満んが語ったように「志ん生師匠の一門は先代の馬の助師匠も先代志ん馬師匠も、志ん生師匠を見習って、一升瓶から『冷のコップ酒』でグッと行くから短命になっちゃう。志ん朝師匠もまた然りでね」というところまで来ると早逝した噺家を悼んで嘆息するほかない。
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昭和のはじめ、安藤鶴夫が、高座着がなくお祭りの浴衣の上に借物の紋つきを着て高座に上がっていた古今亭志ん生、当時は柳家甚五楼だった人のエピソードが宇野信夫『私の出会った落語家たち』(河出文庫)にあった。
そのころ、売れない噺家の甚語楼を中年の女が贔屓にした。待合のおかみだった。女は大きな金の指輪をはめていて、どうかしてそれをせしめたい甚語楼はいろいろ思案をめぐらしてみたが上手くいかなかった。
ある日、甚語楼は、どうも困ったことができた。長いことじゃないから貸してくれと言ってみたが、堪忍して頂だい、これだけは堪忍してと受け付けない。あとはもぎとるしかなくやむなくそうしたところ女はまたも堪忍してとわめいた。
嫌も応もなくもぎとった甚語楼はおれも相当な色悪だなと思う。そして指輪を持って行きつけの質屋の暖簾をくぐり、なじみの番頭に威勢よく渡して「めいっぱい貸してくれ」と言ったところで、番頭はひとめ見て「天ぷらですよ」と笑った。
先日ハーマン・G・ワインバーグ『ルビッチ・タッチ』を読んだものだから、このエピソードをエレガントに仕上げればルビッチふう艶笑喜劇になりそうだな、と思った。
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フレッド・アステアジンジャー・ロジャースのコンビによる「ロバータ」はアメリカでは一九三五年(昭和十年)三月、日本では同年八月に公開されている。寺田寅彦がこの映画について感想を書いていて(寅彦は「コンチネンタル」も観ている)タップダンスを「西洋の足踏み踊り」と書いていた。こちらのほうがわかりやすかったのかな。
寺田寅彦はアステアとロジャースの踊りに「非常によくバランスのとれた何かの複雑なエンジンの運転を見ているような不思議な快感」と述べ、ダンスの躍動のなかに均衡を見ている。そして呼吸がよく合っていて「一プラス一 が二になる代わりに三になり四になり十になるようである」と讃えている。
ロバータ」のはじめ、アステアは変な男、ロジャースは妙な女としか見えない。ところが二人が踊るうちに「だんだんに男が腹に強い力をもった男に見えて来るし、女が胸に美しい意気をもった女のように見えてくる」。
寺田寅彦はここに二人の芸の力を感じている。芸は腹と意気があればこそである。
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成田空港から台北へ。台湾を訪れるのははじめてで、中国語圏でいえば香港、澳門、広州を廻って十年近くなるが、それ以来である。三泊四日で故宮博物院、忠烈祠、中正記念堂など台北市内観光と淡水、九份、基隆、三峡、鶯歌などを廻ることとしている。
成田での出発が一時間半ほど遅れ、午後七時過ぎ台北桃園国際空港に到着。そのあとレストランで、明日からの充実した活動のため中華料理に舌鼓をうちながら、カンペイ、カンペイ、またカンペイ。