小西湖

永井荷風はみずからを風に葉が破れたハスに見立てて、戯れに敗荷と号した。その句「枯蓮にちなむ男の散歩かな」の男は敗荷としての自身を指している。
明治四十四年一月十八日井上唖唖とともに上野博物館で錦絵を鑑賞した帰りに詠んだこの句には「小西湖上にて」との前書きがある。江戸末期から明治にかけての漢詩壇で不忍池は小西湖として呼び慣わされており、それを踏まえたわけだ。
荷風の随筆「上野」には服部南郭不忍池の文字の雅でないのをを嫌って篠池と書いたとか、梁川星巌とその社中の詩人は蓮塘あるいは杭州の西湖に擬して小西湖と呼んだことが述べられている。
中国文学者でのちに慶應義塾の教授となった奥野信太郎が若いころ友人と池之端悪所で遊ぶ際には小西湖を隠語のように用いて誘いあったという話がその著『女妖啼笑 はるかな女たち』に見えている。