ロマン・ポランスキー 初めての告白

「水の中のナイフ」「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」「戦場のピアニスト」「ゴーストライター」等々どれも大好きな作品だが、率直なところ監督ロマン・ポランスキーその人については作品だけで十分とは思わないものの、深入りするのは避けてきた。
ユダヤ人として迫害を受けた体験は、諸作品わけても「戦場のピアニスト」に色濃く反映されていて、その意味では振幅の大きな人生に興味は覚えても、その先には妻のシャロン・テートカルト教団による惨殺と自身が引き起こした少女への淫行事件が待ち受けているのだから気持は前に向かなかった。
この猥褻行為によりポランスキーは保釈中にヨーロッパへ逃亡した。これが一九七七年。そして二00九年九月、チューリッヒ映画祭に出席するためスイスに滞在していたときスイスの司法当局に身柄を拘束され、アメリカから身柄引き渡しが要求された。審理の末、翌年スイスはこれを拒否して釈放が決定した。
拘束されている間にポランスキーの長年のビジネスパートナーで友人のアンドリュー・ブラウンズバーグがインタビュアーとなりポランスキー自身が生い立ちから現在に至るまでの人生を語るドキュメンタリー作品が企画され、撮影された。それが「ロマン・ポランスキー 初めての告白」である。

一九三三年、パリで生まれたポランスキーは、三歳のとき移り住んだポーランドクラクフ第二次世界大戦を迎えた。この地にもゲットーが作られユダヤ人が収容されたが、彼は父親の機転でからくも逃亡し、その後もフランスのヴィシー政府によるユダヤ人狩りに遭うがようやく生きのびた。しかしながら両親は別々に連行され、父親は生き残ったが母親はアウシュビッツで虐殺された。
大戦後は俳優と映画人の道をあゆみ、監督デビューした「水の中のナイフ」はポーランド社会主義体制下では黙殺されたが、海外では高い評価を受けた。
一九六八年ポランスキーは女優シャロン・テートと結婚したが翌年八月九日、妊娠八ヶ月のテートは自宅でチャールズ・マンソン率いるカルト教団による虐殺事件の被害者となった。このときポランスキーは自身の関与を話題にされ、スキャンダルまみれのダメージを受けた。
そうして一九七七年、ポランスキージャック・ニコルソン邸で、当時十三歳の子役モデルに対する淫行事件を起こし、保釈中に国外へ逃がれた。
その人が、これまでの人生を静かな雰囲気のなかで抑制の利いた語り口で語る。場面により関係する写真や映画のシーンが映される。情報としてはヨーロッパへの逃亡をめぐることがらについて、わたしがこれまで知らなかった事実が多く含まれていた。
ここで彼ははっきりと事実を認め、そのうえで国外へ逃れた事情を明らかにし、保釈後の担当司法官による法律の恣意的な運用を訴えている。いまは和解に達して訴訟を取り下げた当時十三歳の被害者もそのことは認めていたし、スイスの司法当局が身柄引き渡しに応じなかったのにもこの点が関係していたと考えられる。


さまざまな傑作を生んだ映画監督は、ナチスの迫害を受け、カルトの連中に家庭を破壊され、ロリータ趣味から淫行加害者となった人でもある。はじめにも述べたように、わたしは、おもしろい映画を観たいのであって、監督の人生は知らないよと出来るだけ難しいことは考えないようにしてきた。反対に、いくら優れていてもそんな人の映画は観たくないと思っている方もいるだろう。いずれにせよ、ポランスキーはここで、自分の話を聴いてほしいと告白に及んだ。その作品と人生をどれほどに、どのように結びつけて考えるのかという課題の新たな局面である。参考までに、もしも棺にひとつだけ映画を入れてもらえるとしたら「戦場のピアニスト」と語っていたことを書き添えておこう。
(六月二十六日シアター・イメージフォーラム