『色ざんげ』

丸谷才一による生前最後の編纂本『花柳小説傑作選』(講談社文芸文庫)には十九篇の短篇小説が収められている。そのなかで島村洋子の短篇連作集『色ざんげ』から採られた「一九二一年・梅雨・稲葉正武」「一九四一年・春・稲葉正武」の阿部定をめぐる二篇が異彩を放っている。
阿部定、石田吉蔵にかんする文献は気をつけてきたつもりだが不覚にも『色ざんげ』(新潮社)についてはまったく知らなかった。さっそく取り寄せたところ奥付には二00一年四月二十日発行とあり、多くは一九九七年から九九年にかけて「小説新潮」に断続的に掲載されていた。

収めるのは九篇の小説、うち阿部定による独白体の一篇を除くほかはなんらかの関わりのあった男たちが語るお定さんの肖像、面影で、なるほど彼女を語るのにこういうテがあったかと唸ったがしょせんはコロンブスの卵である。
昭和十六年、定の出所に際して警察は特に配慮して吉井昌子の名前に変えるのを許可し、変名の配給書類を作るなどして平穏な生活ができるよう計らった。戦前の警察はこうした一種の保護を施行できる権限を持っていたらしい。
戦時中、吉井昌子はある男と親しくなり同棲した。『色ざんげ』ではさいしょにこの男が定を語る。巷間どうしたいきさつからか男は女が定であることを知り股間を切られるのを恐れて逃げたという冗談話があるが、ここで作者は石田吉蔵との精神的三角関係にこの男を置いて、定との愛を語らせている。
つづいて生娘の定を犯したとされる当時慶應医学部の学生、石田吉蔵が主人の吉田屋で板前をしていた男、事件の前から定を妾として世話をしていた大宮先生、昭和七八年頃大阪の店に出ていた定とのかすかな接点を振り返りそのことを作家の織田作之助に語ったという天ぷら屋某、定が昭和四十三年に浅草に開いたクィーンというバーにいた若いバーテンダー、そして『花柳小説傑作選』所収の二篇の男稲葉正武が定を語る。稲葉は定を花柳界に送った女衒であり、昭和十六年に刑期を終えて出所した彼女の身元引受人となった男である。
阿部定は千葉の勝山ホテルに従業員として雇われていた昭和四十六年六月ホテルの箸袋に書置きを残して失踪した、このとき六十六歳というのが長らく彼女の最後の足どりとされていた。ところが平成十年(一九九八年)に刊行された堀ノ内雅一『阿部定正伝』(情報センター出版局)には昭和五十五年当時、定が浅草のA旅館の二階の和室を隠れ家として使っていたという証言がある。証言者はこの旅館の女将で、彼女の亡父がいっとき定を世話していたという。七十代なかばの定にはなおときどき会って小遣いをもらえるパパがいたらしい。
色ざんげ』に戻れば、七人の男が語ったあと作者は「二00一年・春・阿部定」で定に自身を語らせる。一九0五年生まれだから百歳近い定による男たちへの返歌、そしてかれらの話を一点にまとめる扇の要のようでもある。
ここで彼女は「石田が死んだ夜からの私は余生を生きていただけでごさいます。三十過ぎでいったん、死んだような女ですので、本当に死ぬのを忘れてしまったのか、あるいはもう私は死んでおるのかも知れません」と語るいっぽうでつぎのような心情も吐露する。
〈どこの男も「女房のことは何とも思わないんだが別れられないから我慢しろ」と申します。私が大阪で妾をしておるときにも旦那はそう言いました。
あるいは淫売をしておりますときにも、男は皆そう申しました。
それが嘘か本当か私にはわかりませんが、うまいこと言われて勝手をされたなあ、という気がございます。
騙されていたとは申しませんけど、いいようにされていたと思います。
私みたいなクズでございますが、いろんな女のかたたちのかたきを討ったような気もございます。
そうですね。石田には申し訳ありませんが、晴れ晴れした気持ちもありました。〉
二つの告白は経年による心情の変化を示しているのだろうか。あるいは真情をあらわにしたくないためにいっぽうの告白を韜晦として口にしているのか。どちらかに割り切れるというものではないが興味深いし、そこに定吉のふたり、さらには男と女のあいだがらを見つめる作者の視角とまなざしが示されている。