「裏町人世」

淀川長治さんはときに「日本映画って、何を観ても貧乏臭いのね、衣装も三流だし……」と語っていた。そのときわたしがきまって思い出すのが太宰治の「弱者の糧」というエッセイだった。ここで太宰は、日本の映画は多く敗者の心を目標にして作られていて、そのメッセージは諦念であり、つつましさへの安住であると論じた。
文章を精読する習慣があるから字幕を読みとるのに骨が折れる、近眼なのに眼鏡をかけていないから余計に疲れてしまうと太宰は洋画を好まなかった。くわえて、映画館へ入るときは心が弱り敗北感にある状態なのでどんな映画でも骨身にしみると書いていて、「貧乏臭い」のをなぐさめてくれる日本映画を贔屓にしていた。映画でも観ようかと映画館に足を運ぶ観客は無気力な敗者の溜息をひそませているというのが太宰の観察で、淀川が批判した日本映画の貧乏臭さを太宰は弱者のなぐさめという点から考えていたのである。
そこで太宰に導かれて歌謡曲の世界に目を移すと、こちらにも貧乏や負け組の心情を歌った佳曲がずいぶんあることに気づく。たとえば大正時代の「船頭小唄」、昭和戦前の「赤城の子守唄」「名月赤城山」「流転」「裏町人生」「大利根月夜」、戦後の「星の流れに」「圭子の夢は夜ひらく」などなど。
平成のうた事情はまったく不明で、わたしが知る貧乏・負け組歌謡の最新ヒット曲はさくらと一郎の「昭和枯れすすき」である。レコードの発売は昭和四十九年(一九七四年)七月だから、最新のなんていうのはおこがましいけれど、そのあと、この種のヒット曲は思い当たらないのは、おそらく日本人のメンタリティの変化や経済成長の余得が作用しているのだろう。
貧乏・負け組歌謡を意識したのは中学生のときで、歌詞を引くと東海林太郎「名月赤城山」のなかの「意地の筋金 度胸の良さも いつか落ち目の三度笠 言われまいぞえやくざの果てと 悟る草鞋に散る落ち葉」と田端義夫の「大利根月夜」にある「愚痴じゃなけれど世が世であれば 殿の招きの月見酒 男平手ともてはやされて 今じゃ 今じゃ 浮世を三度笠」が琴線に触れた。
どうして惹かれたのかはよくわからないが、学校の成績の低空飛行が多分に影響しているような気がしないでもない。
まもなく知ったのが昭和十二年(一九三七年)に上原敏と結城道子のデュエットでヒットした「裏町人生」で、これが貧乏・負け組歌謡のなかのわたしの最高珠玉の一曲となった。

裏町にこぼれ陽はさすけれど、こぼれ陽のごとき薄情けはお断りと男が世間に背を向ければ、誰に踏まれて咲こうと散ろうとわたしの勝手、渡る世間を舌打ちで、すねて生きるのがなぜ悪いと女が開き直る、というのが歌詞の肝で、ここにあるのは恋の破綻に特化したうらみつらみではなく、そのことも含むこれまでの人生すべてにわたる敗北と挫折と零落である。にもかかわらず男と女の心の底には薄情けを拒否する矜持と、舌打ちしながらも生き抜こうとする意地とが見えていて、凡庸な嘆きの歌との決定的な違いを示している。
昭和戦前のモダンで華やいだ東京を謳歌した藤山一郎の「東京ラプソディ」は「裏町人生」の前年昭和十一年にヒットしていて、両者は陽画と陰画の関係、「東京ラプソディ」を反転させたとき浮かび上がるのが「裏町人生」である。
歌手の人生も対照的だった。藤山一郎(1911-1993)は戦後も長きにわたり活躍し平成四年(一九九二年)には国民栄誉賞に輝き、他方、上原敏(1908-1944)はスター歌手としての地位を確立しながらも戦時の慰問でだんだんと健康を害して多くの薬を常用するようになり、昭和十七年に応召、二年後の昭和十九年にニューギニアで戦死した。
積極的な慰問活動の実績や三十歳を過ぎての召集には不可解な面があり、のちに上原の本名を松本力治と知らなかった秋田県のミスであったことが判明した。
また上原とおなじ明治四十一年(一九0八年)生まれの結城道子は「裏町人生」のヒットのあとも「愛国行進曲」「純情月夜」その他をポリドールに吹込んでいるもののそこから先は不明で歿年はいまもってわかっていない。
永井荷風は『断腸亭日乗』でときどき歌謡曲に言及していて、からかい気味を装いながらも、真に風紀を乱すのは官憲が取り締まる流行歌ではなく、廉恥心なき政治家や軍人政府の横暴、社会公益に名を借りて私欲をたくましくする偽善であるとした。今西英造『演歌に生きた男たち』(中公文庫)によると、歌謡曲に人なみ以上に関心を持ちながらも人前で歌うことのなかった荷風が少し酩酊気分になると小声で歌ったのが「裏町人生」だった。

*「裏町人生」
作詞:島田磬也
作曲:阿部武雄