「リンカーン」

スティーブン・スピルバーグの新作「リンカーン」を観てきた。はじめはいまさら偉人伝のような映画はいいよと食指が動かなかったが、それなりに工夫はしてあるだろうし、あまり自分の世界を狭めてはいけないと考え直して行ってきた。

この映画ではエイブラハム・リンカーン奴隷解放宣言の合衆国憲法への反映すなわち合衆国憲法修正第十三条の下院での批准と南北戦争終結という二大事業をやり遂げた四ヶ月の日々が家庭のありようをふくめて丹念に描かれる。合衆国第十六代大統領は、南部連合総司令官ロバート・E・リー将軍が降伏した六日後の一八六五年四月十五日、ワシントンD.C.のフォード劇場で観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れたから、結果としてこの四ヶ月は最期の日々となった。
何はさておきアカデミー賞三度目の主演男優賞に輝いたダニエル・デイ=ルイスの演技とメイクについて特筆しておかなければならない。日常は静謐なたたずまいを見せるリンカーンだが、その政治信念を現実のものにするための重要な局面にあっては権力抗争への意欲をむき出しにする。多数派形成に自信をなくしている自派の幹部を「あれこれ言わずに、いますぐ票取りに走れッ!」と叱咤する。こんなせりふは日本の政党の親分でなくてもいやらしい場面になりやすいがダニエル・デイ=ルイスにその臭みはない。演技の賜物というべきだろう。
百五十分の長尺にもかかわらず一片の退屈もなかったのはたいしたドラマ作りと評価したうえで、しかし率直なところ教科書を読んだあとのような、ためにはなったが興奮やよろこびは稀薄といった感は否めなかった。ミステリーファンの悪しき性と承知のうえで、南北戦争終結工作と憲法修正のための多数派工作の向こう側で暗殺やデモクラシーの破壊を狙っていた者たちはどんな動きをしていたのかがあればもっと緊迫感があったのにとないものねだりもした。
興味深かったのは、この時代にこれといった家産もなく政治専業でめしを喰う職業政治家が輩出していたことで、多数派工作ではこれら政治家たちの生活環境がしっかり調べ上げられ、正論による説得とともに、幹部には政界のポスト配分が、陣笠には落選したときの職業斡旋が効力を発揮していた。
ここのところで南北戦争のおよそ三十年前、フランスからジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、各地を見聞して自由と平等という新たな価値観のもとに生きる人びとの様子を描いたトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を思い出した。教科書のような映画が政治学の名著を開いてすこしは勉強しなくてはと刺激をもたらしたのだから、教科書としては最高の役割を果たしたことになる。
(五月九日TOHOシネマズ日劇