『落語を歩く 鑑賞三十一話』

成瀬巳喜男監督「女が階段を上る時」で銀座のバーで雇われマダムとして働く高峰秀子が体調を崩し、実家の佃島に帰り静養していて、そこへバーのオーナーである細川ちか子が見舞いにやって来るシーンがある。家を訪れる手前では小さな蒸気船が客船を曳いていて、彼女が佃の渡しでやって来たことが知れる。

「女が階段に上る時」は一九六0年(昭和三十五年)の作品だから、その四年後の一九六四年(昭和三十九年)八月二十七日佃大橋が竣工して、中央区の明石町と佃島を結んだ佃の渡しは姿を消した。三百二十年余りつづいた隅田川最後の渡船場で、図らずも成瀬監督はありし日の佃の渡しの姿をスクリーンにとどめておいてくれたのだった。
佃の渡しが使命を終える直前、矢野誠一と、渡米を控えていた五代目春風亭柳朝渡し船に乗って、そのとき噺家は、そろそろ夏に入る季節の東京の落日を眺めながら「おれが帰ってくる頃は、こいつもなくなっちまうんだな」とつぶやいたそうだ。
いっぽうの矢野誠一はこの年の十一月から半年にわたり東京中日新聞古典落語に描かれた場所の、いまの姿を訪ねながら、落語の世界を紹介するのを狙いとする「落語散歩」を連載し、これが一九六七年(昭和四十二年)に『落語遊歩道』としてまとめられて刊行された。演劇・演藝評論家としてのはじめての著作で、さきごろ改題復刻され『落語を歩く 鑑賞三十一話』(河出文庫)となった。

新聞への連載がはじまった一九六四年の十一月といえば東京オリンピックの直後にあたる。佃の渡しが示すようにこのころ東京は大きく変貌した。著者は古典落語の面影をもとめながらずいぶんと様相の変った東京を歩いた。往時の風景を偲び、現在の姿と落語の風景を重ね合わせる落語散歩だった。
たとえば「品川心中」や「居残り佐平次」の舞台となった品川は「トルコ風呂も、ヌードスタジオも連れ込み宿もなく、あるのは一泊百円風呂つきというベッドハウスや、××大学学生寮」となっていた。だから品川遊廓という夢の跡は「一泊百円風呂つきというベッドハウスや、××大学学生寮」といった光景からかつての姿を立ち昇らせるほかなかった。
あるいは佃の渡しによせて著者はいう。
「渡しのかわりに橋ができ、川を埋めたて道路ができる。新しい時代の新しい生活形態は人びとの古い情緒にひたることなどを許さないかのようである。それはそれでいい。ただ、渡しがあり、隅田川で白魚のとれた時代の風俗や、そこに生きたひとたちの姿が、すぐれた落語家の藝をとおして、いまなお私たちの胸のうちに生きつづけていのもまぎれもない事実なのである」。
こんなふうにして著者は歩きながら当時の東京と落語にあった夢の町を結んだのだった。
それからおよそ半世紀が経つ。
落語散歩がいまも魅力をもたらすのはもちろんだが、いっぽうで、本書に描かれた東京の姿は先の品川の光景に見られるようにいまでは貴重な地誌となり、その地誌は「昔から、根岸はおめかけ屋敷の多いところとされている。当節流の、二号さんという殺風景な言葉には、おめかけさんという語感のもつ、日陰のわびしさがないのが気に入らない。いまや、二号さんは、日陰の身ではなくなったのだろうか」というふうに人びとの心の地誌にもおよぶ。参考までに記すと、元版刊行に先立つ一九五七年(昭和三十二年)に大映がリメイクした「暖流」では「二号でもいいのよ、情婦でもいいんだから」と左幸子根上淳に愛を告白するシーンがある。
こうして『落語を歩く 鑑賞三十一話』は古典落語をめぐる散歩にくわえ「三丁目の夕日」のころへの散策という趣をくわえた本となった。