不忍池

関東大震災直後の九月五日、不忍池を通りかかった田山花袋は、緑葉のなかに紅白の蓮の花が咲いているのを見て、思わず池の畔に引き寄せられた。
その光景を見つめた花袋は、何をのんきなことを言っているとあきれられるかもしれないが、あたりがわびしいまったくの焦土となってしまったために一層その花が、その色彩が美しく見られた、「私は何とも言われない気がした。じっと見ていると、涙が私の眼に滲み出して来た」と『東京震災記』に書いている。この日は空が透き通るように青く、それが緑葉のなかの紅白とたいへんよく映えていたという。
見えている建物は精養軒。震災当日、上野に二科展を見に来ていて地震に遭った寺田寅彦は日記に、東照宮前の将棋倒しになった石灯籠や横桁が外れかかった大鳥居の柱とともに大きな桜の根本に寄集まっていた精養軒のボーイ達の姿を書きとめている。