内海桂子師匠九十歳!

松の内NHKの寄席中継で内海桂子あした順子のお二人が共演していて、これが呼び水になったのか「九十歳の内海桂子師匠がいま浅草東洋館に出演している」「それはぜひ行かなくては」といったしだいで急遽浅草へ行く。無職渡世に時間はたっぷりだから不忍池を経由して浅草通りをてくてくとあるいて六区へ出遊した。

東洋館の前身は浅草フランス座。かつて井上ひさしが文芸部員として裏方を務め、また若きビートたけし深見千三郎に師事し芸をみがいたストリップ劇場だ。この劇場が改装され、いろもの専門の寄席、浅草東洋館として再スタートしたのが二000年(平成十二年)元旦のことだった。
十一時半から五時まで漫才協会若手ベテランの芸がたっぷり詰まった舞台は入場料金三千円の素敵なエンターテイメントだ。前半のトリは漫才界のエンターテイナー、おぼん・こぼんのおふたりで、いつもながらのタップダンスとジャズヴォーカルがうれしい。ナマで見るのは国際劇場が取り壊されたあと、たしか三越劇場だったかな、SKD(松竹歌劇団)に客演した舞台以来だからずいぶんになる。
内海桂子師匠は一門のナイツとともに舞台に立ちトーク、あとはお一人で都々逸、そうして奴さんの踊りを披露した。身体の芯、体幹が強そうで、声の張りもたいしたもの。見て聴いてしているうちに直に元気が届けられたよう。そのあと青空球児・好児の漫才で大爆笑のうちに閉幕した。
劇場をあとにしてお正月らしく駒形どぜうで一献傾け、スカイツリーの切子模様のライトを見て帰宅。
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秋庭太郎『考証永井荷風』を読み返した。荷風の刺青については本ブログでも新藤兼人監督「墨(サンズイあり)東綺譚」についての記事で触れているが、そのときは本書にある刺青の写真をすっかり失念していたので以下に述べておこう。
昭和三十一年九月五日、荷風と親しかった杉野橘太郎、安藤英男のふたりが荷風宅を訪れた。この日、杉野は『墨東綺譚』朝日新聞連載時の切抜帖を持参して題字の揮毫を請うたところ荷風はそれに応じた。その左手二の腕から「う命」と刺青がのぞいているのを杉野は見た。袖に隠れていた字は「こ」で、「こう命」は妓富松こと吉野コウと契りあい彫ったものだ。この日、杉野と安藤は荷風の写真を撮り、なかに荷風の二の腕がのぞいているものもあり、秋庭太郎はそれを所蔵していると書いている。
「こう命」には異論があり晩年の荷風に接していた小門勝二は「こうの命」とあるのを見たと述べている。これに対し元読売新聞の記者で、一九三七年生まれの橋本敏男はその著『荷風のいた街』で高校生のとき銭湯で見た荷風の刺青は「こう命」だったと断言する。
写真があればいずれかに決するわけだが、秋庭太郎所蔵の写真はどうもはっきりしたものではないらしく決定的な証拠にはならないようだ。
この問題については橋本敏男『増補荷風のいた街』にある考証随筆や男女の愛の契りを確認して刺青を彫りあう起請彫の定法として「の」は入らないことなどから「こう命」と考えるほうが妥当だろう。ちなみに新藤兼人監督「墨東綺譚」では「こうの命」とされていた。
「こう命」の吉野コウの菩提寺荷風は谷中三崎町玉蓮寺と書いている。秋庭太郎は谷中に玉蓮寺という寺はなく、コウの菩提寺が谷中坂町曹洞宗玉林寺にあるのを突き止めている。荷風の誤記が故意によるものかどうかはわからない。玉林寺はわが家に近いのでコウの墓所を探してみたがいずれかわからなかった。ついでながらここには荷風とゆかりのあった正岡容の句碑がある。

話題は変わるが本書に荷風に揮毫を請うふたりの警察官が登場する。ひとりは麻布市兵衛町曲り角交番に勤務する関口某という巡査で、このお巡りさんは大正九年荷風が麻布へ転居するとさっそくやって来て句を請い、以後、一年に二三度は訪ねておなじ依頼をしていた。『断腸亭日乗』には大正十四年十月二十一日の記事に見えていて、荷風は短冊を商品にしているのではないからと「請はるるままに駄句を書して与ふ」と書いている。もう一人は鳥居坂警察署の中村という刑事でおなじく色紙を持参して揮毫を求めている。荷風ファンの警察官というのはなんだか話のわかる人のような気がするのだがいかがだろう。
戦後の話だが、中国文学者の竹内好の日記に、郵便物が多くて恐縮だから担当の郵便職員に中元歳暮の品を贈っているとある。所轄の警察官が管内の有名人を訪ねて短冊色紙を求めたり、郵便物の多い家から贈り物を受け取ったり、いまなら問題視されて当然だが、いっぽうでのんびりした時代だったんだなあと思ったりもする。
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『考証永井荷風』のつぎに姉妹編『新考永井荷風』を読んだところ、秋庭太郎が、荷風は父久一郎の死に際し「文人的生活を忘れなかつた亡父の生きざまに思ひを馳せてゐる」と書いていた。ほかにも数箇所で用いていて、歴史的仮名遣い、正字により記述された書物にこの用語とはと恐れ入るとともに、この著者にして「生きざま」かと悲しくなった。
不用意な筆遣いをするのは誰にもありうるからできるだけ寛容な態度を保っていたいとは思うけれど、どうもこの言葉には虫酸が走る。荷風が思いを馳せたのは父の人生であっても「生きざま」ではない。「死にざま」は昔からあるが「生きざま」などという下品な言葉はかつてはなかった。なかには自身の人生、生き方を「生きざま」と表現する人もいて、苦労、辛酸を売り物にして凄みを効かせているつもりらしい。人それぞれの人生の苦難を比較して自分のそれは「人生」ではなく「生きざま」とする感覚は異様だ。父の人生を「生きざま」と表現したのを荷風が知るときっと不機嫌から痛烈な一言があったにちがいない。

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ここ数年恒例のように高知県須崎市で行われる桜川駅伝競争大会に出場していて、今年もメンバーにくわえていただけたのでルンルン気分で高知に帰省した。東京を発つ前夜になって第一走者がインフルエンザに罹患したとのメールがマネージャー格の方から届いた。代役は確保したそうだがお互い気をつけましょうね。
家族からは還暦も過ぎたんだからいつまでもタイムや順位にこだわるのではなく完走できるのをありがたいと思わなくてはと諭されている。そこで駅伝を前に機先を制するかたちで、タイムや順位は狙わず完走できることに感謝しなくっちゃと口にしたところ、狙えるときは狙ってみたらと言われて、人間交際のむつかしさをあらためてしみじみ感じた。身内でこれだ。人生行路にああ言えば、こういう反応があるはずといった安易な定型の思いこみは禁物ということだろう。
その桜川駅伝競争大会では三キロのコースを走った。タイムはおはずかしいが14分02秒。昨年はたしか13分58秒だった。若いときのようにはいかないのはわかっているけれど、なんとかして13分台は確保したいものだ。

それはともかくふだん本郷通りを主にジョギングするときの1キロ最速タイムが5分前後だから本番では10〜20秒ほど早くなる勘定で、そこにタスキがわたしに与えてくれた力があると思っている。別のレースで後半に力を貯めておこうなどとあれこれ考えて日常のジョギング並のタイムになったことがあったが、素人はあれやこれや考えず、一途にタスキに願いを込めてはじめから突っ走ったほうがよさそうだ。レースの日はいつも夕刻から慰労会が待っていて、この日もたのしい一夜を過ごした。