浅草出遊

自宅から徒歩で上野経由、浅草へ。約束の十時よりすこし早く着いたので荷風ゆかりのレストランであるアリゾナの周囲をぶらついた。一九五九年(昭和三十四年)五月二日の永井荷風告別式の会葬者のなかには松本操アリゾナ主人の姿もあったことが秋葉太郎『考証永井荷風』に書きとめられている。
定刻に雷門で友人と落ち合い金龍山浅草寺東日本大震災復興支援「大絵馬寺宝展と庭園拝観」へ行った。

観音参詣に訪れた老若男女の眼を惹きつけた寺宝の大絵馬は、奉納願主の依頼により当代一流の絵師が筆をとったもので、谷文晁、長谷川雪旦、柴田是眞、歌川国芳、高橋源吉(由一の息子)といった絵師の名前が見えていた。
展示には迦陵頻伽(かりょうびんが)の絵馬もあった。上半身が人で下半身が鳥という仏教における想像上の生物で極楽浄土に住むとされている。「赤目四十八瀧心中未遂」では寺島しのぶが白いワンピースを脱ぐと背中の迦陵頻伽の刺青がほの暗い光のなかで揺れた。
迦陵頻伽の大絵馬を奉納したのは新吉原二丁目佐野槌とあった。「文七元結」で左官の長兵衛夫婦が、娘のお久がいないと心配しているところへやってきたのが佐野槌の藤助番頭。矢野誠一『落語手帖』には明治二十二年やまと新聞での圓朝の高座の速記ではなぜかわからぬが佐野槌が角海老になっているとある。圓朝も高座では佐野槌だった由。

伝法院の庭からは五重塔と東京新名所が並んで見える。
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浅草で迦陵頻伽の絵馬を見て、一九八七年に亡くなった澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』が思いあわされた。唐の時代、仏法を求めて天竺を目指した高丘親王の物語は「頻伽」で幕を下ろす。澁澤幻想文学の掉尾を飾るこの一篇で、頻伽すなわち迦陵頻伽は高丘親王の遷化ととともに天竺をめざしてであろう空に舞うのだった。
親王が遷化したそのとき現れた迦陵頻伽を作者はこんなふうに表現している。
「中空に虹を吐くような、澄んだけたたましい声をひびかせて、一羽の黄緑色をした小鳥が舞いくるいつつ、さっと草原から翔けあがるのが見えた」と。
美しい顔の「うぐいすのような小さな鳥」がつぶらな目にいっぱい涙をためて高丘親王が逝ったのを悼んで「みーこ、みーこ、みーこ・・・・・・」と鳴く。親王逝去は貞観七年八六五年とされている。
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文化学院公開講座として行われた入江たか子生誕百年トーク・イヴェント「娘が語る女優入江たか子」はよい催しだった。入江若葉さんが語った女優の晩年、子供や孫たちが見守るなか、離婚して以来長い歳月会うことのなかった元夫と再会した話にはジーンとなった。聞きては本学院の講師もなさっている評論家山根貞男さん。
入江たか子の最晩年、女優は和服を新調していた。彼女が亡くなったとき仕付けの糸が抜かれないままの和服が遺されていた。きょうはその着物をわたしが着てまいりました、イヴェントなのにとてもよい母の供養になりましたと、若葉さんが語っておられた。ちなみに母娘ともに文化学院の卒業生である。

トークのあとで成瀬巳喜男監督「女人哀愁」(1937年)の上映があった。クレジットのところでミス・コロンビアの歌が挿入されている。ストーリーは覚えているのにここのところは失念していた。ジャズやタンゴが効果的に使われ入江たか子と堤真佐子のダンスシーンが印象的。
その「女人哀愁」で河野広子(入江たか子)はデパートのレコード売場に勤めていてお客さんに「ありがとう存じます」とあいさつしていた。戦前の東京では顧客へのお礼をいうさいには「ありがとう存じます」があたりまえのあいさつだったように思えた。
「客が帰る時『有難う存じます』『有難う存じました』というこの存じますという言葉も、もう東京のたべものやできくことがめずらしくなった。それにまた紺がすりの若い娘のいうところがうれしいのである」と安藤鶴夫が『雪まろげ』に収める「龍雨の日」に書いたのは一九六0年(昭和三十五年)のことだった。
駒形のどぜうやで若い女の店員の「有難う存じます」を聞いた安藤鶴夫はカンドウスルヲとなった。昭和三十年代なかばともなると戦後世代の口からは「存じます」とのことば遣いは聞かれなくなったことが窺われる。
先日浅草寺の「大絵馬寺宝展と庭園拝観」のあと駒形のどぜうやで食事をしたが、帰り際のあいさつは「ありがとうございます」だった。
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新しい年度がまもなくはじまる。この季節、まれに無職渡世の年金老人にも後輩諸賢からの御挨拶が届く。なかには新しい職務に就くので助言をといった文言もある。もとより助言などできる柄ではないけれど、何をするにしても健康な心身あってこそだから、その点だけはくれぐれもと御自愛をお願いする。昨年から今年にかけて五十前後の知り合いが立て続けに病気に倒れた。防ぎようとてないけれどとにかくリラックスできるとき、休めるときは好きなことをして愉しむべし。これが心身を保つための第一条件だと思う。
荻生徂徠は「政談」で「惣て御役人は閑になくて不叶事也」と述べた。くわえて役職が重くなるほど閑をもっていなければ全体が見渡せないから抜けるところが生ずる、余裕をもって仕事の工夫もして、すこしは学問もしなければならない、と。
ある程度のゆとりがなければ勉強などできるものではない。齷齪ばかりで勉強もできないとなると視野は狭くなるのは必定で、仕事の上で創意工夫をしてみようなんて意欲など生まれようもない。
徂徠によると「毎日登城して、隙なきを自慢し、御用済みても退出もせず」「相役多きは毎日出仕せず共、代り代り出ても御用は足るべきを、何れも鼻を揃へて出仕し、御用なくても御用ありがほになす事」こんな連中はろくなやつではない。「御用ありがほ」が言い得て妙で、徂徠の慧眼、洞察力、江戸時代とは思えない。
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拙著『永井荷風と部落問題』がリベルタ出版より刊行されました(1900円税別)。
御一読、御批評賜れば幸いに存じます。