「サイド・バイ・サイド」

これまでの映画の歴史において唯一の記録フォーマットはフィルムだった。しかしいまデジタルシネマの台頭によりフィルムが消えつつある。映画館で「デジタル上映」という文字を見かけることも多くなった。
サイド・バイ・サイド」はこの映画の現在と未来を考えるドキュメンタリーだ。副題に「フィルムからデジタルへ」とあるようにフィルムとデジタルシネマをめぐるさまざまな問題についてデヴィッド・フィンチャーマーティン・スコセッシジョージ・ルーカスジェームズ・キャメロンデヴィッド・リンチクリストファー・ノーランスティーヴン・ソダーバーグなど錚々たる監督、撮影監督たちがインタビューに応じて意見を述べる。あいだにはいくつかの作品が引用され技術面での解析がくわえられる。

企画したのはキアヌ・リーブス。長年、俳優として表舞台に立ちながら映画製作のプロセスの変遷を見てきたこの人がみずからナビゲーターとなりフィルムとデジタルシネマの「サイド・バイ・サイド」のありようを追求する。
論点は多岐にわたるが究極のところ、フィルムとデジタルシネマとは共存できるのか、それとも新しい手法の普及はこれまでの手法を消滅させることになるのか、ということになる。
この映画でもフィルムのもつ質感や光との関係をデジタルはカバーできないと語る人は多かった。けれどそこから先の対応はフィルム派、デジタル派、中間派に別れる。製作費や劇場の営業の問題なども絡む。
消費者サイドとしては映画視聴のパーソナル化の進展と映画館との関係という大きな問題がある。映像機器の発展は視聴のパーソナル化を一層進め、将来的には映画館の消滅をもたらすだろう、それは劇場が提供してきた祝祭性や社会性の消滅を意味するものではなく、パソコンを通じての対話を一層活発にさせるにちがいないと割り切る論者もいた。これが観る者どうしのサイド・バイ・サイド」だとすればずいぶんと味気ない話ではある。
保存の問題も重要で、デジタル撮影の記録方法が変化するとディスクは残っても上映機器が消滅する可能性が指摘されていた。処分するに忍びないわが家の数本のビデオテープのようなもので、ソフトはあってもデッキはない。現状ではデジタルはフィルムのように長い歳月の保存に耐えられないらしく、案に相違して現状でもいちばん保存に適していのはフィルムなのだそうだ。
観ているうちに小津安二郎監督のエピソードを思い出した。
映画の映写速度は一秒24コマが世界標準となっている。はじめ10コマ/秒だったが動きが滑らかでなくやがて16コマ/秒になり、トーキーの時代になって音を記録するようになると16コマ/秒ではそれこそ間尺にあわず24コマ/秒になった。映画はこのコマを切り、また足すという編集作業を通して完成にいたる。小津作品の編集にたずさわった人に浜村義康がいる。高橋治『絢爛たる影絵』にこの編集者と監督とのやりとりがある。
ラッシュ試写が終わって部屋に灯がつくと小津が「浜ちゃん、あの実景の二カット目だが、ひと駒足したね」という。実景は劇中人が登場しないカットのことだ。
「はあ」
「何故だい」
「いや、ああしたかっただけですが、いけませんか」
「そうじゃない、あの方が良いからさ。有難う」
当時松竹の助監督だった高橋治は、翌日浜村に訊ねた。
「昨日のひと駒の話ですが」
「ああ」
「ひと駒足したのを見抜ける監督って、大船に何人ぐらいいるんです」
「小津ちゃん一人だな。アクションがあるカットでも科白があるカットでも・・・・・・ひと駒となると・・・・・・まして風景の実写じゃあな」
さらに高橋が「実景なのに、何故わかるんです」と質問すると浜村は「わかるような監督になるんだねえ」と答えた。
『絢爛たる影絵』は雑誌連載時には「小説・小津安二郎」の副題があった。だからこの編集をめぐるやりとりも「小説」による小津神話なのかもしれない。わたしはそうは思わないけれど、いずれにせよ映画におけるひとコマの厳粛と怖さを感じさせる話にはちがいない。
ひとコマの加減を「わかるような監督になるんだねえ」というのはフィルムあっての話だろう。もちろんデジタルシネマの世界に独特の編集神話のようなものもあるのかもしれないけれど、小津のような「わかるような監督になる」条件はそこにはないような気がする。
(二0一二年十二月二十七日渋谷アップリンク