ジョヴァンナ・メッツォジョルノのことなど

四月になるときまってヴァーノン・デュークの名曲「エイプリル・イン・パリ」を思い出す。エドガー・イップ・ハーバーグの歌詞ではワインの香り、マロニエの花、木陰のテーブルがあしらわれて春の女神が幸せと恋心をもたらしてくれる。これほど四月に似合いの街とされると他は遠慮がちになってしまうのだろう、この月と組み合わされた都市の歌が浮かばない。
それでは五月はどうだろう。
紀田順一郎『書物愛[海外篇]』所収のH・C・ベイリー「羊皮紙の穴」に「五月のフィレンツェとくれば、人間の経験しうる最上の幸福の一つであると、フォーチュン氏は考えている」とあった。そういえば『眺めのいい部屋』のルーシー・ハニーチャーチがフィレンツェを旅した時期もこの頃だったのでは?

四月のパリの対抗馬は今のところ思い浮かばないけれど、五月のフィレンツェにはローマが名乗りをあげていて、須賀敦子は「五月の半ばにローマにいるというのは、それだけでありがたいようなことだ」と書いている。ポプラの綿毛や広場のカフェの赤いビニール椅子が花を添える五月のローマ。読書散歩もまたたのしい。
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「週間文春」に連載がつづく小林信彦さんのコラムは面白い本や見逃している映画を教えてくれる重宝なコラムで、通読したあとも折にふれ眺めている。2010年のコラムの集成は『伸びる女優、消える女優』(文春文庫)でフレッド・ジンネマン監督「暴力行為」が埋もれた傑作映画として紹介されていた。
DVDは発売されているものの年金生活者にはおいそれと手を伸ばせない価格で、TSUTAYAの在庫を調べてみると自宅に近い上野店と西日暮里店にはなく、渋谷店にあった。たまたまル・シネマで中国映画「罪のてざわり」(オフィス北野も製作に参加)を観た帰りに立ち寄りこの「暴力行為」と併せて「熱砂の秘密」「地獄の英雄」「明日は来たらず」「幻の女」の五点を借りて帰宅。
この店舗はシブめの作品の宝庫だとは知っていたが、借りるのはついでのことでよくても、わざわざ返却だけに出かけるのがホネなので借りたことはなく、しかしきょう行ってみると郵送での返却も可能で大いに意を強くした。
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昨日観た「罪のてざわり」は中国で実際にあった事件に着想を得たという四つのエピソードを描いていた。それぞれの物語は経済成長の波に乗れず、時代の片隅に追いやられて不遇に沈んだ人たちのもがき、悩み、やさぐれであり、犯罪実録ふうに現代中国の社会の断面を切り取っていて、思いも意図もよくわかるのだが……。
社会主義経済の低空飛行から改革開放へ、そしてその先の経済成長に狂奔する事態にジャ・ジャンクー監督が見たのは格差と砂漠化した社会だった。そうした観点に立つこの作品は社会学の教科書としてはたいへんよく出来ている。ただし、映画が心に、躰に働きかけてくる高揚感をわたしはさほど感じなかった。教科書とはそういうものだろう。だから映画として面白いかと問われれば、主題は立派でも映画として面白くなければ困るという自分の映画観からするとあまり肯定的にはなれない。娯楽偏重と言われればそれまでだが。
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「暴力行為」は1948年フレッド・ジンネマン監督作品。
巧みなストーリーテリング、82分という小粒ながら引き締まった、キラリと光る作品に仕上がっている。
不動産業を営む夫ヴァン・ヘフリンと妻ジャネット・リー(きれい)とのあいだには幼い一女がいる。どこにでもある平凡な核家族だ。ところがある日を境に夫は拳銃を持ったロバート・ライアンに執拗に付け狙われる。どうしてなのかは分からない。その謎は半分ほど来たところで明らかにされる。
こうして前半では、ヴァン・ヘフリンが付け狙われるにいたる謎解きにグイグイとのめり込み、その委細がわかると、今度は狙う者と狙われる者の決着がどうなるのか、物語の行方にハラハラドキドキすることになる。
ラストは好みではないが、何はともあれ優れたミステリー映画であるのはたしかだ。

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エルンスト・ルビッチビリー・ワイルダー小津安二郎をつなぐ三角形が、わたしの映画の黄金地帯で、この三人の作品をすべて観るのは生涯の夢のひとつである。そう書きながら勉強不足で、現存する小津作品はすべて観ているもののルビッチ、ワイルダーとなるとフィルモグラフィーの記憶さえあいまいだ。
それはともかく長年にわたり観たいなあと願っていたワイルダーの「熱砂の秘密」と「地獄の英雄」をレンタル店で見つけさっそく視聴に及んだ。
前者はワイルダーにしては珍しいアクション活劇だが、いずれのジャンルを問わずさすがである。ロンメル将軍率いるドイツ軍に敗北を喫したイギリス軍がリベンジするまでの第二次大戦秘話。
いっぽう「地獄の英雄」はワイルダー作品の原型といえるほどその皮肉な気質や人間観がよく示されている。落盤事故で閉じ込められた男を栄達のため徹底的に利用する新聞記者は「アパートの鍵貸します」で上役の不倫のために自身の部屋を提供する出世志向の男に通じる。そして二人とも悪になりきれない。
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小林信彦『伸びる女優、消える女優』で著者は「〈映画は女優で観る〉と早くから宣言して、実行している。男優を見ても、どうってことないのだ」と書いている。殆どの?映画ファンの思いであろう。むかし松竹がスター陣の引き抜きに遭った際には、撮影所長の城戸四郎が男優はどうでもよいので田中絹代をはじめとする女優陣を守れと檄を飛ばした。
わたしの最新のお気に入りの女優はイタリアのジョヴァンナ・メッツォジョルノだ。知ったのは昨年イタリアから帰ったあとDVDで「向かいの窓」を観たときで、彼女の魅力と美しさに惹かれて映画というより女優を観た感じで、翌日さっそく再見に及んだ。この作品、わが国では2003年のイタリア映画祭で上映されただけでそれから先、劇場公開はないままになっているそうで、ぜひ大画面で観なおしたいものだ。

「向かいの窓」はナチスが台頭しユダヤ人が迫害された時代と現代のイタリアが静かに響き合うドラマだ。家庭では夜勤の夫とのすれ違い、妻であることにも母であることにも疲れ、菓子職人への夢を断念して会社の経理を担当することにも倦んでいるジョヴァンナという女性の不機嫌な日常に、迷子の認知症高齢者と向かいの家に住む魅力的な男性が彼女の心の琴線にそっと触れる。
はじめジョヴァンナ・メッツォジョルノ演じるジョヴァンナは、商店で他の客と諍いを起こしたり、いちゃもんをつけたりする困った主婦として現れる。いやな女として登場するのだが、困ったことにぜんぜんそんなふうに見えない、それどころか、おれならこの人に喧嘩をふっかけてもらいたいなどと思ってしまう。
やがて生活に疲れた女、伝説的な菓子職人だった迷子の老人、向かいの窓に見る素敵な男性が織りなすドラマは女性の心を微妙に揺らす。老人の過去は現代に流れ込み、女と向かいの男の現代が老人の過去を照射する。そうして女性は新たな人生を選び直す。迷子の老人を演じたのはヴィスコンティ版「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のマッシモ・ジロッティで本作が遺作となった。
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「向かいの窓」に引き続きジョヴァンナ・メッツォジョルノ主演の「あのバスを止めろ」を観た。ここで彼女はレイラという泥棒女として、はじめ厚化粧の変装で登場する。ほんとにあのジョヴァンナかなと思わせておいて、やがて変装を解くとイタリアン・ビューティの輝きを発する。
吉岡芳子『決定版!Vivaイタリア映画120選』(清流出版)にはジョヴァンナ・メッツォジョルノの2009年の作品「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」が選ばれていて、吉岡さんは「透き通った瞳が印象的な、久々の"険のある美人"」と書いているけれど、小生いささかの「険」も感じておりません。