『シシド 小説・日活撮影所』

日本活動写真株式会社が誕生したのは一九一二年だからことしは日活百年の年にあたる。折りよく宍戸錠『シシド 小説・日活撮影所』が角川文庫に入ったのでさっそく手にしたところ、まさに巻措く能わずのおもしろさで一気に読んだ。

戦後、日活の映画製作は一九五四年(昭和二十九年)にはじまる。他社に出遅れたために移籍で獲得した俳優や新国劇の助力を得てのスタートだった。そのためニューフェースの登用が大きな課題となっていた。さっそくニューフェース第一期生の募集があり選抜された宍戸錠は在籍していた日大芸術学部を中退して入社した。
顔にメスを入れ豊頬の整形をしたこの俳優はやがて小林旭赤木圭一郎に配する魅力的な相手役として人気を得て一九六0年の末には主役への昇格が決まる。石原裕次郎小林旭赤木圭一郎和田浩治のダイヤモンド・ラインに新たな主役がくわわりニュー・ダイヤモンドラインが形づくられようとしていた。そこへ石原裕次郎のスキー場でのアクシデントという不測の事態が発生する。本書はここまでが扱われている。最後の頁には「つづく」とあるから続編が出るのだろう。
宍戸錠がみずからの体験を語るということは日活撮影所さらには戦後の大衆文化の足跡にもつながる。もちろんともに映画にたずさわった俳優、スタッフの人物像にも及ぶ。本書には本文にくわえ、たのしくためになる豊富な註釈が附されており、それらが本文のシーンに応じて細部へのこだわりや全体の俯瞰ショットをもたらしてくれる。
ただし『シシド』は「小説・日活撮影所」の副題があるように、どこにどんなフィクションがほどこされているかわからない。読者としては虚実皮膜のところを想像しながら頁を繰るのがまた一興である。たとえばスターの撮影所入りの時間については本人のスタンス、周囲の不文律による合意やあきらめ等からの許容範囲があり、石原裕次郎なら二時間の遅刻、小林旭は一時間、宍戸錠だと五分前とかいったところ。
製作再開後、日活にはじめて大ヒットをもたらしたのは石原裕次郎であり、それを見いだしスカウトしたのはターキーこと水の江瀧子プロデューサーだった。この人はまた三千人が応募したオーディションで浅丘ルリ子を選んだ人でもある。このときの最終審査に残ったのが桑野みゆき山東昭子、滝瑛子、榊ひろみ、上原美佐安田祥子由紀さおりのお姉さん)という顔ぶれだったというから、その眼力の凄さがうかがわれる話だ。
第三期ニューフェースではいって来た小林旭のエピソードも忘れがたい。大部屋で仕出し役もこなさなければならなかったアキラに邪険な対応を繰り返すフォースの助監督がいて、あるとき怒りが爆発する。
「オメェ、誰に向かって物言ってンだ。いいか、俺は小林旭だ。少しは気を付けてモノを言えョ。オメエが言うように俺ァ仕出しだョ。ただ言っとくけどな、俺は第三期のニューフェイスだぞ。ニューフェイスってのはスター候補の最先端よ。だがな、俺は小林旭だ。お前にハッキリ言っておくぞ。俺はコーホじゃねえぞ、スターになるンだよ。スターの小林旭なンだよ」と言い放つ。
ある年の日活系映画館の館主会にスター小林旭は出席していた。会がお開きになったあとも酔いが手伝ってかアキラはそこに残り、座敷の舞台で自分の持ち歌、裕次郎の歌、古今亭志ん生の落語、宝井馬琴の講談等を三時間にわたって演じつづけたという。それを見たシシドは、こいつはタダモノではない、強靱な体力と特殊な精神の持主と認識を新たにするのだった。
そのシシドに話を戻そう。
それまでの端役を別にして宍戸錠久松静児監督で森繁久彌が主演した「警察日記」でデビューした。この作品では東北は磐梯山のふもとでロケが行われた。一夜、地元の有力者による宴が催され、ここで著者は「スター森繁は、気配り、奉仕、話題どれをとっても卓越したパーティ・ミキサーだ」ったと語る。
まずは歓迎に応えて三木のり平がお座敷芸を披露する。襖から出した両足は、片方が赤い蹴出しに白い足袋、片方は宿の浴衣に裸足、双方くんずほぐれつの男女のカラミは「スラップスティックにエロティシズムの香りを漂わせ、一人芝居で交合四十八手中、十五手ぐらいの体位を両脚の動きだけで見せ、最後に丸めたチリ紙を丸めてポイっと捨て」ての至芸で、座の全員が魅了されて大爆笑と大喝采。これにつづいて森繁が三文オペラ傷痍軍人のギャグで大サービスといった具合だ。

そういえば東宝の社長シリーズでも取引先の賓客を接待するのに森繁とのり平がお座敷芸を披露するシーンがあった。あそこは映画を地で行くのと逆に、地を映画で行っていたのだった。というふうに本書の話題は日活に止まらずときに他社にも及ぶ。
スターになったシシドも懇親の席でロケ先の方々との潤滑油になればと積極的に持ち芸を披露した。それについて「駆け出しの頃、スター森繁や三木のり平が地元に溶け込む姿を見て、ああなりたいと憧れたし、彼らの芸の呼吸や対応の仕方をいつのまにか身につけていた」と書くところはこの人の人徳というべきだろう。