あじさい、ひまわり、ライラック

六時に起床しラジオのニュース、天気予報を聞き、洗顔、歯磨き、そうしてストレッチ、筋トレ、ジョギング、シャワーのあと食事をしながらNHKBS1の国際ニュースを見るのが朝の日課だが、ロシアによる侵攻で、ウクライナの惨状が気の毒なうえにプーチンやラブロフといった人品骨柄最悪の面々を見るのが不愉快なものだから国際ニュースは止すこととした。

週刊朝日」連載「帯津良一のナイス・エイジングのすすめ」で先生が「八十六歳になって思うのは、もう余分な情報はいらないということです。放っておいても、必要な情報は耳に入ってきます。特に最近のウクライナ情勢など、不条理すぎて聞きたくもありません」(2022/5/6-13日号)と語っていて、お言葉どおりわたしも辛く、不快な気分を軽減するようにした。

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ヒューマントラストシネマ有楽町で「シング・ア・ソング 笑顔を咲かす歌声」を観た。二00九年、夫をアフガニスタンの戦線へ見送り、その帰りを待ちながらイギリス軍基地で暮らす女性たちが合唱団を結成する。なかには息子が戦死し、いま夫が戦場にいる母親=妻がいる。合唱団で活動しているさなか夫の訃報が届いた妻がいる。グループのメンバーは愛する人の戦死を意識せざるをえないなかで活動するタフな女性たちだ。

事実をもとにした作品で二十分も見れば物語の展開は読めるのだが、それでもなお軍人の妻たちの溌剌とした姿や可能性の追求に心が動いた。基地内のささやかな住居や周辺の町の風景も素敵だった。

クライマックスで合唱団は、第一次世界大戦以降の戦死者を追悼する式に招かれ、アルバートホールの舞台に出演する。その直前に、メンバーの一人が「出産とおなじ、あれこれ考えては潰れちゃいそう」と口にしていた。マラソンのスタート前のわたしの気持は出産のときとおなじだったのか!?

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この四月に、早稲田大学の「デジタル時代のマーケティング総合講座」 で講師の吉野家常務取締役(解任)が、マーケティングでは生娘をシャブ漬けにするような戦略が重要と講じていたのが発覚した。

講義内容のすべては承知していないけれど、チープな判断力から察すると、どれほどのレベルかの推測はつく。また二十五人の講師のうち女性は一人で、これだけでも「総合講座」の企画内容に疑問符がつく。

受講料は二十五人の講師一括で三十八万五千円、参加者は相当な資金力のある人たちだっただろう。会社や官庁の研修の一環として派遣された人もいたかもしれない。 早稲田大学は講座を受講料に見合う、効果のあるものにしなければいけない。

帯津先生の言葉を繰り返すと「八十六歳になって思うのは、もう余分な情報はいらないということです。放っておいても、必要な情報は耳に入ってきます。特に最近のウクライナ情勢など、不条理すぎて聞きたくもありません」。

ひょっとするとマーケティングについての必要な情報も講座なんか受講しなくても入ってくるかもしれず、それよりもゆったりとひまなときを過ごすほうがよい知恵も浮かぶのではないかな。

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六月十一日。10kmヴァーチャルマラソンを走った。目標タイムは55分、フィニッシュタイム 55:41は、いまのわたしとしては上出来で、総合ランキング 252/633、男女別ランキング 225/537だった。

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隠居のこごと。TOHOシネマズ日比谷で「トップ・ガン マーヴェリック」を観た日のこと。

時間はPM3:50〜6:20とあったから3:45に椅子に着いた。3:50までにどれほどコマーシャルをしようが文句はないし、定刻からしばし予告編があるのは織り込んでいる。しかしこの日は長かった。そのうえ定番のマナーについてと隠し撮りは犯罪ですのご注意がある。本編は131分だからおよそ20分の予告編とご注意で、さすがにうんざりだった。

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渡辺裕之氏六十六歳、上島竜兵氏六十一歳と芸能人の自死が続いた。それに寄せて「週刊文春」の記事「高齢者うつ」のサインを見逃すな」に、高齢者のばあい身近な人の死、とくに男性は退職後、女性は子供が独立したあとに目標や生きがいを失うケースがあるとあった。

わたしに退職は慶事だったからこの面からのうつはまぬがれたわけだ。隠居趣味があり、退職をお祝いごととしたほどだから、ときに自分は勤労意欲を欠いているのではないかと思ったこともあった。大甘な採点かもしれないが、外から見るとそれほどでもなかったのではないかな。ま、自分の背中は自分では見えないけれど。いずれにせよ退職が生きがいの喪失とならずさいわいだった。

女性は子供が独立したあとに目標や生きがいを失うケースがあるそうだが、子供にいつまでも家にいられては困るじゃないか。さっさと独立していただくのが何よりだ。

そのうえですこしでもたくさん遺してあげたいと願う。若いころは児孫に美田を遺すなど格好悪く、恥ずかしいと思っていたが、いまはそうでもない。いっぽうでお金は自分のたのしみを最大限にするよう使う、たのしみを削ってまで遺そうとは思わない。虫のよい話だが本音だから仕方がない。双方の均衡点としてまずは死ぬための経費を最小限に収めなければならない。むやみな延命措置などもってのほかである。

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ことしも不忍池のほとりにあじさいの季節がめぐってきた。

年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」(劉希夷「代悲白頭翁」)。

ロシアのウクライナ侵攻で人の世は激変しているのだが、そのなかにあって自然は花をプレゼントして、心をなごませてくれる。

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アンネの日記』に、隠れ家の窓から見あげると青空がある、葉の落ちたマロニエの木がある、その枝という枝には細かな雨のしずくがきらめいている、空を飛ぶカモメやその他の鳥の群れは日ざしを受けて銀色に輝いている、といった箇所があり、隠れ家でのきびしい生活のなかここでも自然が少女を慰めている。

あじさいにはアントシアニンという色素が含まれていて、土壌から吸い上げた成分の違いに反応して色が変わるそうだ。中性やアルカリ性の土なら赤くなり、アルミニウムを含んだ酸性の土壌では青く変化する。

あじさいの色の変化について「広辞苑」には青から赤紫色へと変化するから「七変化」というとあるが、青にも白っぽい青もあり、青みを帯びた赤紫色や淡紅色もある。言葉では表現しにくい複雑な色あいにこの花の魅力がある。

ウクライナはまもなくヒマワリの季節を迎える。人びとの心がすこしでも和らぐよう願っている。

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ロシアではいまライラック(リラ)の花が咲き誇っているだろう。二0一六年五月末にモスクワとサンクトペテルブルクを旅行した。ふたつの街ともあちらこちらにライラックの花が咲いていた。このころが美しく過ごしやすい季節、ひいては観光に適した季節で、赤の広場は世界各地からの観光客で賑わっていた。いま平和を求めるロシアの人たちはライラックに何を思っているだろう。

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あじさい余譚。

「その壁を砕け」「洲崎パラダイス 赤信号」「風船」「日本列島」。いずれもAmazonプライムビデオにある魅惑のモノクロ作品群にある、いわゆる日活アクションに先行する日活映画で、四本ともに芦川いづみが出演していてファンには堪えられない。

芦川いづみの芸能界での活動期間は一九五三年から一九六八年だから女優引退から半世紀以上が経つ。愛らしさとひたむきさが自然というか絶妙に溶けあっているところにその特質があり、「泥だらけの純情」で吉永小百合が演じた令嬢役の演技の原型は芦川いづみにあったような気がする。

あじさいの季節におなじくAmazon石原裕次郎と芦原いづみが共演した「あじさいの歌」(本作はカラー作品)を観た。なかで、長年赤線の売春宿の女将をしていた女性(轟夕紀子)に女子大生(中原早苗)が、「おばさまって男と女の関係を扱うのを仕事にされてきたんでしょう。その方面での学識経験者に質問があるんですけど」と面白い言い方をしていた。おそらく石坂洋次郎の原作にあるのだろう。その「男と女の関係を扱う」フーゾク方面では「いろ」(情人、パトロン)が変わると生活の不安定を招きやすいので、あじさいへの思いは複雑と聞く。

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アレキサンドラ・アンドリューズ『匿名作家は二人もいらない』( 大谷瑠璃子訳 、ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んだ。このところ電子本が多かったのでお気に入りのブックカヴァーを着せられたのがうれしく、それに五百頁超の大冊を前にするとファイトが湧くのは電子本では覚えない感覚だ。

映画鑑賞の前に喫茶店に座り、三時間ほどぐいぐい頁を繰るたのしさにひたりながらラストおよそ二百頁を読んだ。その日の気分もあるが、総じて自宅より喫茶店のほうがはかどる。

優れた女性版ピカレスク作品の訳者あとがきに、著者はパトリシア・ハイスミスから大きな影響を受けたとあり、なるほどなと納得した。 ニューヨークとマラケシュという曾遊の街が舞台だったのがうれしく、グンと飛躍するストーリーテリングに「おっ!」と声をあげそうになった。

元版は二0二一年三月にアメリカで刊行されてい、ユニバーサル・ピクチャーズが映画化権を獲得している。あまり待たせないよう映画化してほしいな。期待してるぜ。

さあつぎはルーシー・フォーリー『ゲストリスト』(唐木田みゆき訳、ハヤカワポケットミステリ)だ。

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魚雷の攻撃を受けて退避命令が出たならば、救命ボートに乗り移る際できるだけ礼儀正しくせよ、さもないと「世界中の笑い物」になる。なにしろアメリカ人は記録映画を撮影し、ニューヨークで上映するのだから。世界にさらされる日本人の像が笑われたり、恥ずかしいものであってはならない。

日本は「恥の文化」 欧米は「罪の文化」 という比較文化論の図式のみ知っていたルース・ベネディクト菊と刀』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)だが、いざ手にしてみたところ文化論の図式より、明治このかた昭和二十年代あたりまでの日本のアルバムといった印象の本だった。ちょっとピンボケじゃないの、と思える写真を含め。

なかで面白いなと思った一枚。

「日本の映画では、若い娘になれなれしい態度を示す若者は『不良』と見なされる。日本人の言う『よい』青年は、アメリカ人の目から見ると、魅力的な女性に対して愛想がない。場合によっては粗野ですらある」。

戦前の松竹映画では佐分利信がこうした青年を演じていたから、アメリカ人の目には彼こそ日本的なスターと映っていたに違いない。

おなじく同書に「一九三0年代のこと、ある進歩的な人士が日本に帰国してどれほどうれしく思っているかをおおやけの席で述べ、うれしい理由として妻との再会を挙げた。それは世間で物議をかもした。この文化人は、自分の両親に再会できるとか、富士山をふたたび仰ぎ見ることができるとか、あるいは日本の国家的使命に尽力することができるとか言うべきだったのである。妻はそのようなレベルにはないのだから」

なるほど佐分利信が帰国して妻と再会したのがうれしいと朗らかな表情を浮かべるのはカットで、せいぜいはにかんでうつむくのが限度だっただろう。

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英語学習用の読み物集OXFORD BOOKWORMSが六段階のうち五段階まで来た。このレベルに収められているのはディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』、トーマス・ハーディ『狂乱の群衆を遠く離れて』、『キャサリンマンスフィールド短篇集』、ジェイン・オースティン『分別と多感』ほか。いずれも英語学習用にリライトされている。

第四段階にはスティーブンスン『宝島』があり、いま光文社古典新訳文庫の『宝島』(村上博基訳)を読んでいる。この歳になってようやく『宝島』かと思わぬでもないが、さすが冒険小説の古典だけあっておもしろく、七十を過ぎても読書の幅が広がるのはうれしい。

いま読んでいる『デイヴィッド・コパーフィールド』を終えれば全編の日本語訳も読んでみたい。ただし岩波文庫石塚裕子訳全五巻は絶版、電子書籍はある。新潮文庫中野好夫訳全四巻は文庫は健在だが電子化はされていない。翻訳は新しもの好きだが、さてどうするか。なんだか在職時より忙しい隠居生活である。

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六月二十四日。十月十六日に行われる東京国立競技場発着「東京レガシーハーフマラソン2022」の当選通知があった。祝!

倍率の低い東京マラソンプレミアム会員枠、東京都民枠ではともに落選、高倍率の全国一般枠での当選だから皮肉なものだ。

翌日当選祝いに20kmを走った。高温を避けて朝に走ったがさすがにこの気候での一人旅はきつい。30℃超の五月二十九日にハーフの大会に出場しラスト5kmで失速した。今回はそれほどのことはなかったものの疲労はハンパなく、高齢者はあれこれ憂いがつのる。

先月のハーフマラソン、ラスト5kmのタイムの悪さを気温の影響と自分を慰めているが、ほんとにそうなのか。今回の20kmだってタイムはましだったが、ずいぶんな疲労だった。とすればコロナ事情改善を受けて久しぶりに走ったハーフマラソンでの失速は気温のせいではなく、根本は加齢による衰えだったかもしれない。

楽観的というかノー天気なタイプなのに長距離走のタイムだけはナーバスになるわたしである。

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英語学習テキストで『デイヴィッド・コパーフィールド』を読み、同書岩波文庫版(電子書籍)に進むこととした。本来ならディケンズの原文にあたるべきだが、やがてそんな日を迎えられるのだろうか。「日暮れて道遠し」だけれど老残の日々の遥かな希望にはなっている。

わたしの英語の勉強について、ある女性から、韓国に「晩学の泥棒 夜の明けゆくを知らず」ということわざがあります、言い得て妙ですよねとコメントをいただいた。調べてみると、歳をとってからはじめたことは、夜が明けるのも気がつかないほどにのめりこむという意味だった。過褒のお言葉としてありがたく頂戴した。

なお『デイヴィッド・コパーフィールド』について著者ディケンズは「本書が、小生の全著作の中で一番気に入っています」「子供に甘い多くの親の例に漏れず、小生にも心ひそかに可愛い子というものがあります。その子の名前はデイヴィッド・コパーフィールド」と述べている。(一八六七版への序文)

長いながい小説を中途で挫折することのないよう願いながら読みはじめた。