「老愁ハ葉ノ如ク掃ヘドモ尽キズ」

映画を観たあとにちょいとビールを口にするのはわが至福の時間だ。映画の味覚がビールに沁みてときに爽快、ときにほろ苦い。先夜も有楽町で「夢売るふたり」を観たあとビールに及んだが、味わいはといえばよい意味で複雑で、二時間余り眼を凝らしたあとの心地よい疲労感とスクリーンに映し出される現代の荒涼が高揚と苦みのまじった余韻をもたらしていた。

夫婦は繁昌する居酒屋を火事で全てを失ってしまった。やがて二人は店の再建のために結婚詐欺を繰り返すようになる。ところが、店の再建と結婚詐欺という目的と手段が詐欺行為者のなかでだんだんと見極めがつかなくなり、あたかも乱反射のような様相を帯びてゆく。
アトランダムに魅力を挙げると、阿部サダヲ松たか子の快演怪技、アンニュイな気分漂うジャズっぽい音楽、しっかりした構成の画像(なかでも夜の東京や雨のシーン)、結婚詐欺事件にまつわる人びとからうかがわれる現代日本人の精神風俗の描き方といったところか。西川美和監督の凄みさえ感じさせる力業だ。
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今年度で退職する友人の私家版刊行のお手伝いにこの数日校正に従事した。ザルのごとき神経の当方への依頼には恐れ入るが、よほど閑な老人に思われているのだろう。まちがいではござんせんが。
校正はスポーツでいえばディフェンス。総じてこの練習はきつくて嫌がられる。防御に穴があってはならず、校正に遺漏があってはならない。さりながら・・・・・・。
ワープロの普及以前、まだ原稿用紙に書いていたころに半村良『女帖』の書評文を書いたことがあり、「『もっとたくさんオシッコ採ってこなくちゃだめよ』とその看護婦さんはちょっと手荒い感じの口調で言った」という文章の引用が、活字になってきたときは「手荒い」が「手洗い」になっていた。外目にはユーモアのある失策に映るかもしれないけれど、自身としてはオシッコがらみの余計に痛いミスだった。
岩波の社外校正係を経験した澁澤龍彦は「校正というのは独特な注意力の持続を要求される仕事で、生来それに向いていないひとは、いくら努力をしてもダメだと思ったほうがよさそうである」という。たぶんそういうものだろう。けれどプロはともかく書き手の多くはそうはまいらない。
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神保町の古書店で『誤植読本』(高橋照次編著、東京書籍)というアンソロジーを見かけたので身につまされるようにして購入し、喫茶店で読むうちに役所勤めをしていたときの校正ミスを思い出した。

年度替りの担当者交替で出先機関の各担当宛に文書を送る必要があった。送付したあと年度の数字が改まっていないのに気づいた。校合も決裁も経ていたのに差込み印刷という印刷時の定形フォームが直っておらず、四十数箇所に電話して本人に渡る前に廃棄してもらい送付し直した。
文書を作成して上司の手直しと決裁を経て一件落着。それでもパソコンから打ち出す段階でこうしたことが起こる。のちに決裁する側に廻ったが、すこぶる肌理の粗い神経にチェック作業は不向きで、ともかく他人様の名前と日付だけには気を遣わなくてはと思いながらも他の仕事に取り紛れることもしばしばだった。
文章を書くときは校正を意識していないから書けるのであって、校正が頭にあったりすれば様相はずいぶんと違ってくるのではと思う。「庇」のつもりが「屁」になっているのも自身の校正ミスであれば誰に文句もいえない。
本書で山口誓子は誤植について「それは生みの苦しみで、後になれば楽しみによつてすつかり償はれる苦しみ」と述べているが、それよりも活字になった段階で誤りの指摘を受け「言って下さる方はありがたい。沈黙の冷笑を思うと、気が重くなる」(竹西寛子)というのが自分の正直な気持に近い。
昔の中国で、校正のむつかしさを葉を掃くのにたとえた人がいた。掃いてもきりがない庭の落葉は館柳湾の「老愁ハ葉ノ如ク掃ヘドモ尽キズ」という句にあるように老愁のたとえでもある。老愁の葉に心を致し、誤植の葉を掃くのをよろこびとしてはじめて人間が出来てきたといえるのだろう。
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人目にふれることはないと決めて書いた自伝や日記だとしても心のどこかに公開の可能性を考えることはあるのではないか。いや、絶対に公開はないと思って書いていても書き手自身が読者でもあるから作為の記述は避けられないような気がする。もちろん思いちがいや記憶のあやまりもある。
公開を前提に書かれた自伝や日記となると思いちがいや記憶のあやまりは別として、意図的、作為的な記述は当然で、文中に出てくる人物が生存していれば配慮もはたらく。ウソとマコトの見極めひとつとっても自伝や日記には優れた註釈があればありがたい。
岩波書店新日本古典文学大系明治篇『福澤諭吉集』に収める『福翁自伝』の註釈は凄い。四百頁近い本文の下段にくわえ九十頁にわたり上下二段に註釈が附されていて、福澤ワールドの仔細と現在の福澤研究の到達点が示されている。
さすがにそのすべてにはつきあいかねるが何かのときには参考になるだろう。
その『福翁自伝』にこんなくだりがあった。
長崎での学問が叶わず中津に呼び戻された若き福澤諭吉だったが、いてもたってもいられず、とうとう家を飛び出して江戸行きを決行する。その途上、小倉から下関行きの船に乗ったところ風が荒く、浪が立ってきた。すると船頭が慌てた様子で客の諭吉に、やれその纜(ともづな)を引っ張ってくれ、そっちのなんとかをしてくれと頼むものだから面白半分に加勢した。
ようやく下関に着き、船頭が客に助力を求めた話を宿の内儀にしたところ、あれが本当の船頭ならよいのですがじつは百姓で、この節、暇にまかせて内職に船頭をしていて、農業のあいだに慣れないことをしたりするからすこし波風があると大きなまちがいをしでかします、といわれて恐怖心に襲われた。
内職の船頭。笑ってはいけないけれどこの船頭を遊びが過ぎて勘当され船宿に身を寄せている若旦那の徳さんに置き換えると古典落語の「船徳」の世界ではないか。この一席は人情噺「お初徳兵衛浮名の桟橋」の発端の場を初代三遊亭圓遊が滑稽噺に仕立てたのだとか。その背景には福澤が見た内職船頭の姿があったような気がする。
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森茉莉『私の美の世界』の一篇「ビスケット」で鴎外の長女は戦争疎開で団子坂の伊勢屋と離れてからは好きなビスケットと出会ったことがないと回想している。女中が一分間で買ってきたというから観潮楼と伊勢屋とはごく近い。はじめは本郷の青木堂の西洋菓子がもっぱらだったが店がなくなってからは伊勢屋のビスケットになった。
森茉莉が伊勢屋の前に親しんだ青木堂の西洋菓子だが、この青木堂については安田武の名著『昭和・東京・私史』に忘れがたい場面がある。
一九四0年(昭和十五年)十月末の都内ダンスホール閉鎖の直後、青木堂にフロリダのダンサーだった女性が何人かやって来て、なかの一人が「夜のタンゴ」を流している蓄音機の上に肩肘をつきリズムにあわせて小さく首を振っていた。外はどしゃ降りの雨。足元には洋傘から滴る雨水が地図のような流れを見せていて、彼女はほとんど無意識に、ハイヒールの爪先で擦るように、その雨水の地図を拡げていた。きれいな脚だった。激しい雨音と「夜のタンゴ」とダンサーだった女性の脚線美とビールの軽い酔いがそのころ京華中学五年生だった安田武の官能を揺さぶっていた。
昭和十五年のダンスホール閉鎖命令のときはまだあった青木堂だが森茉莉が戦争疎開したときにはもうなくなっている。おそらく戦争のあおりで店を閉じたのだろう。