昨年のラグビー・ワールドカップのベスト4は南半球勢が占めた。その四強ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチンによるラグビー・チャンピオンシップで、アルゼンチンが南アに26-24で勝った。ホーム&アウエー方式で一週間前のアウエーでは惜敗したが、ホームでは見事に勝利した。
ラグビーは番狂わせの可能性が低く、それだけに拮抗した試合は総じて素晴らしく、また感動的だ。判官贔屓でアルゼンチンを応援していたこともあり、こういう試合を見るとあらためてラグビーっていいなあと思う。
ラグビー・チャンピオンシップでのアルゼンチンの勝利はこれで通算三勝、オールブラックス戦の勝利はまだないが、期待しているよ!
いっぽう国内ではジャパンラグビートップリーグが開幕し、ヤマハが王者パナソニックに勝った。清宮監督、長谷川コーチのもとで強化の図られたヤマハのスクラムは今シーズン、他チームへの脅威となるにちがいない。
開幕週の試合はすくない点差の競ったゲームが多かった。これからが楽しみだ。
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妻に先立たれた資産家の高齢男性の後妻におさまり、夫の死後「相続は公正証書に基づきすべて私が」と遺産をぶんどってゆく大竹しのぶ、これに猛烈に抵抗し食ってかかる亡父の娘尾野真千子、結婚相談所を主催するかたわら大竹の「嫁ぎ先」を探る豊川悦司など芸達者が繰り広げる「後妻業の女」は現代を風刺するなかなかのブラック・コメディだった。
豊川悦司が高齢者対象のお見合いパーティーを開き、これと見た男に大竹しのぶを添わせる。ただし、色と欲の企画立案と後妻業の実行という攻めのシーンにくらべると、後半わるだくみの発覚を防ぐ段になってから話が拡散し、まとまりを欠いていたのが惜しまれる。女をたらしこんで金をせしめようとする「竿師」笑福亭鶴瓶と大竹しのぶとの絡みは見どころではあるが、物語の展開にうまくはまっていない。原作をさておくとすれば大竹、豊川VS鶴瓶、尾野真千子のタッグマッチを観てみたかった。
多くのスポーツと同じく、後妻業も攻撃よりディフェンスが難しそうである。
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高畑裕太のレイプ事件に関連して、実父は大谷亮介と報道されていた。ほとんどテレビを見ないので高畑裕太は名前だけ知る人だったが、とんでもない奴だったんだねえ。中尾彬が、礼儀を知らず、無礼な振る舞いにたまらず、はじめて怒鳴ったと語っていた。
大谷亮介は映画で何度かお目にかかっており、遠い昔にはオンシアター自由劇場「上海バンスキング」の舞台でも見ている。六本木にあった自由劇場での初演(一九七九年)は逃したが博品館劇場での二演に接して、以後追っかけをした芝居で、そのころ大谷は二十代後半の若き劇団員だった。余貴美子も在籍しており、笹野高史のバクマツと結婚する中国人の娘リリーに扮していた。
しばらくして余貴美子と大谷亮介が自由劇場を離れて劇団を旗揚げしたという記事を読んだ。実父報道で気になったので確かめたところ一九八六年、東京壱組という劇団だった。
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横井也有『鶉衣』(岩波文庫上下巻)をようやく読み終えた。それぞれは短い文章ながら和漢の古典をふまえていて、註釈に目をやると本文が進まず、註釈を気にせず本文を読み進むと理解が図られずというなかなか厄介な書であるが、高い見識と軽妙洒脱の合わせ技に魅了され、感嘆するうちにようやく巻末にたどり着いた。
横井也有は尾張藩で大番頭、寺社奉行等の要職を歴任し、病気を理由に五十三歳で隠居し、以後俳文、漢詩、和歌、茶道などに親しみながら風流人として過ごした。
戯号として螻翁(ろうおう)を名乗っており、螻(けら)という虫は、飛んで距離はわずか、木に登って上まで行けず、泳いで谷を渡れず、穴を掘ってわが身を覆えない、というふうにいくつか能はあってもまとものものはなく、その螻に自身をなぞらえたのだった。
「ここに翁あり、詩つくれど詩ならず、歌よめど歌に似ず、絵かけどもつたなく、俳諧すれども下手なり。我かの虫におとらめやとて、みづから螻翁とぞ名乗りける」。このあと、こうしていまは身のおほどを知り人にほめられることを願わず、人のそしりを厭わなくなったと続く。
寺田寅彦が『柿の種』に「脚を切断してしまっている人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。総入れ歯をした人が、どうかするとその歯がずきずきうずくように感じることがあるそうである」と書いていて、也有の「詩つくれど詩ならず」のならない部分に通じているようである。
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横井也有は赤穂浪士が吉良義央を討った元禄十五年(一七0二年)に生まれ天明三年(一七八三年)に歿した。
八十を超えた人生を「足らで死ねといひし四十もふたり前つれづれ草に面目もなし」と詠んでいる。「命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」をふまえて、二人前の八十年を生きて『徒然草』に面目もなしというわけだが吉田兼好も四十を大きく超えて生きたから、ここではお二人の人生を寿いでおこう。
おめでたついでに「一葉の行きかふ夕、枕によりて閑を求むれば、軒端になれて伴ふ鶴あり、酒をととのへて肴をよべば、俎板に生きてはたらく鯛あり」、そして「松に鶴さて新そばに雁の声」の一句が続く。このとき也有三十六歳、上手いものですな。
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「婦に三従の道あるや、其家にありて親にしたがふも、父母まめにして揃へばなり。嫁して夫にしたがふも、中の睦まじければ也。老いて子に従ふも、よき子を持てば也。物の三ッ揃ふは稀にして有りがたし」。横井也有『鶉衣』より。封建社会の婦人の道を論じて硬直と一方的な論断を避けた議論となっている。
婦人は親に、夫に、子に従うべしといっても、親、夫、子の在り方も問われる。ここから一歩進むと、従う価値のない親、夫、子ならばどうかという問題となる。その思考はずいぶんと柔軟で独断と教条を排していた。
そこで也有をまねて言う。「子は親の背中を見て育つと言えど、よき背中、見て価値ある背中あればこそ也」。
子は親の背中を見て育つという。それも見て価値ある背中であればともかく、しょうもない背中など見ないほうが、見せないほうがよいに決まっている。父親としてのわたしがそうだったように。
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父は戦後長いあいだ越中ふんどしをしていた。軍隊生活が長く、戦後の社会にはなじめても、トランクス型のパンツにはなじめなかったらしい。ふんどしは母が縫っていたが、そのついでにわたしのぶんも縫ってくれたから、小学生のころは越中ふんどしとパンツを併用していたが中学生になり人目を気にしだしてからはパンツ専一とした。
小学生のころパンツかふんどしの上にはいたズボンにカーキ色のものがあった。むやみにデカくて、米軍のお下がりか、日本軍のものかはわからないが、軍服を簡単に仕立て直したものと思い込んでいた。ところが蓮實重彦『伯爵夫人』があまりに面白くて引き続き『随想』を読んだところ蓮見氏は、アメリカ人の書いた小津安二郎監督作品研究書に、「戸田家の兄妹」のなかで佐分利信が軍服を着ていたとあったが小津映画に軍服姿の人物は登場しない、あれは国民服であって、アメリカ人が見まちがうのは無理もないから訳者がそこのところを指摘すべきだったと述べていた。わたしのカーキ色のズボンもあるいは国民服だったかもしれない。
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丸谷才一と堀口大學との対談「『明星』の詩と短歌』で丸谷さんが「このあいだ私は、スタアとは何かを考えた。すると、スタアとは、かなりの知的な人間すらもミーハーにしてしまうような人間、それがスタアなんだということがわかりました」と語っていた。
ここですぐに思い出したのが新村出先生で、写真に見られるように高峰秀子への傾倒ぶりにはただならぬものがあった。広辞苑の編者ばかりではなく彼女は谷崎潤一郎、梅原龍三郎、木下惠介、東海林太郎らを「ミーハー」にした。天性のスターと言うべきだろう。
東海林太郎は「赤城の子守歌」の舞台で子役の高峰秀子と共演し、なんとしても養女にしたいと念願を叶えたのはよかったが、実子をさておいてかわいがるものだから妻から不満が出て家庭争議となり、けっきょく二年ほどで養子縁組は終わった。『わたしの渡世日記』で東海林太郎が高峰秀子母親を引き取るくだりは読むたび面白い。