阿部定予審訊問調書

戦時中、司法省が不良少年をテーマにした教育映画を企画して東宝に依頼したことがあった。東宝マキノ雅広を監督に据えようとしたが、マキノは阿部豊との共同監督を希望し、また脚本には小國英雄をくわえ三人の担当とした。
阿部豊は一九一二年に渡米し、やがて早川雪舟の薦めでセシル・B・デミル監督の『チート』で本格的に映画デビューしたあとハリウッドで活動しながら演出術を学び映画監督を志望して帰国した。戦前の代表作に「緑の地平線」「燃ゆる大空」、戦後では「細雪」がある。
小國英雄は黒澤明の脚本チームのまとめ役としてその傑作群を手がけたことで知られるが、戦中にはよくマキノ監督の脚本を担当していた。
マキノ雅広は日本の娯楽映画の代名詞といってよい人だからいまさら紹介や説明をするまでもないでしょう。
のちに日本映画の黄金時代に寄与したこの三人はいずれも品行方正とは縁がないと自認していたから教育映画にたずさわるのに違和感を覚えながらも何はともあれ取材とばかりに司法省を訪れたところ、さっそく司法次官が地下の資料室に案内してくれた。驚いたことに大量の没収品や裁判記録が保管されたその部屋は世相風俗の深部を知るための資料の宝庫だった。
次官が退室するとマキノは「いやァ、ある、ある。すごい資料だ」と没収された枕絵に熱中した。阿部と小國は阿部定の裁判記録を見つけ「いやァ、こりゃすごい、おもしろい」と争い合うようにして頁をめくり読みふけった。一九四二年(昭和十七年)のことで、マキノ雅広の快著『映画渡世』にある話だ。

阿部定事件が起こったのは一九三六年(昭和十一年)五月十八日。東京中野の料亭吉田屋の仲居だった定は同年二月はじめから店の主人である石田吉蔵と尾久の待合満佐喜で昼夜わかたぬ愛欲にふけったはてに吉蔵を殺して切り取った局部を身に付け、男の腿には「定吉二人きり」と血で書いて逃亡した。
この出来事は二二六事件のあとの重苦しい世相に風穴をあけ、人々は猟奇事件に笑いころげながら一瞬であれ暗雲を払いのけたような気持がしたという。くわえて逮捕されたお定さんが検事に語った予審調書が世に出たことで事件は「神話」として昇華した。お定さんと吉蔵さんのふたりが時代を超えて語られる存在となったのはやはりこの予審調書あればこそだ。渡辺淳一のベストセラー小説『失楽園』にこの調書が引用されていたから興味深く読んだ方も多くいらっしゃるだろう。
いまは起訴状ひとつで裁判となるが、戦前の司法制度では検事が公判請求するとそれに先立ち予審判事が被告の取り調べをおこなった。弁護人の立会や黙秘権は認められておらず、作成された予審調書は裁判での最重要の証拠となる。司法省の地下室で阿部豊と小國英雄が読みふけったのはこの阿部定予審訊問調書だったとして間違いないだろう。
なにしろ生まれ、生い立ちからはじまり吉蔵さんとの情事のはてに陰部を切り取った事件まで克明リアルに語られ、おもしろいというより感動的で告白文学の白眉との評もあるほど。わたしはこれぞ近代日本の性愛文献の最高峰であることを疑わない。そんなにその世界の文献に通じているのかと問われると困ってしまうけれど、ほかは読まなくても断言できちゃうほど優れているんですね。疑う人にはまず読め!というほかないのだが、読後はきっとに賛同していただけると思いますよ。

「石田は寝間がとても巧者な男で、情事の時は女の気持をよく知っており、自分は長く辛抱して、私が充分気持よくするようにしてくれ、口説百万陀羅で女の気持を良くすることに努力し、一度情交してもまたすぐ大きくなるという精力振りでした」
「それは一番可愛い大事なものだから(中略)誰にも触らせたくないのと、どうせ石田の死骸をそこに置いて逃げなければなりませんが、石田のオチンチンがあれば、石田と一緒のような気がして淋しくないと思ったからです」といった具合。
じつはこの予審調書は阿部豊と小國英雄が司法省で読みふけっていたころにはすでに好事家のあいだに秘かに流れていた。阿部、小國ともそれなりに裏街道に通じてはいただろうがさすがに非合法出版物にまでは眼が届いていなかったようだ。
一九三六年十二月二十一日お定さんは懲役五年の判決を受けた。その翌年はやくも調書は「艶恨録」との題を附けて非合法出版された。驚いた警察が押収して照合鑑定したところ予審訊問調書原本と一致した、つまりその信憑性が警察により確認されて値段もつり上がったという。(前坂俊之編『阿部定手記』中公文庫)
ここらあたりはめずらしく官民一体、阿吽の呼吸で調書の価値を高めている感がある。調書がどのようないきさつで持ち出され刊行されたのかはいま以て不明なのだが、情報公開制度などない時代の官庁不出の調書といえどもいろいろな事情で外に出ることがあり、この事例は日本の文学のためには慶賀すべき流出だった。
ところで司法省地下室で枕絵やお定さんの調書に興じていた三人の映画人は、退室したはずの司法次官が戻ってきたのに気付かず、これでは教育映画にならないと見てとった次官は「おひきとり願います」と告げ不良少年をテーマにした教育映画の企画は取りやめとなったという。