昔の歌にはまった!(其ノ一)

二月二日
銀座シネパトスの今井正監督特集「どっこい生きてる」と「また逢う日まで」を観たあと並木通りのノエビア銀座ギャラリーで開かれている「モダン東京1930」へ。濱谷浩の写真が二十葉ほど展示されていた。ほとんど、もしくはすべて見ているかカタログで持っているかするものだけれど、並木通りのギャラリーに表装された写真が掛けられてあるのはしみじみとよいもので、薄暮の瓦斯燈を模した灯が雰囲気を高めてくれていた。

八十年ほど前の銀座をいまの銀座で見た「モダン東京1930」。掘割に映る東京会館周辺のネオンの川明かり。サイセリア前の花売り娘。森永キャンデーストア前を往き交う人々。赤坂のフロリダダンスホールにはモガとモボが集う。そのフロリダの開店前だろうか一人のダンサーが鏡に向かっている。

会場をあとにノスタルジックな気分で並木通りを行くうちに有楽町駅から山の手線に乗るのを止して京橋、八重洲から大手町、神田、湯島を経て不忍池まで出た。濱谷浩の写真を心のアルバムに貼り、夕暮れどきの銀座を歌った藤山一郎と二葉あき子のデュエット「なつかしの歌声」を何度か小声で歌いながらあるいた。
この曲、母がよく炊事をしながら口ずさんでいた。背中で聞いたおぼえこそないけれど、ずいぶんと小さいころから記憶のなかにある。「お腹がすいてるから早くごはんにして」と口にするのがははばかられるほどに朗らかで愉しそうに。このメロディーが聞こえてくるとまもなく食事だとこちらもうれしくなっていたのかもしれない。
通しで歌うんじゃなくて、あるときは「あこがれは悲しき乙女の涙」のフレーズから歌いはじめ、あるときは「赤き灯もゆ恋し東京恋し東京」のところを繰り返しハミングしていた。順不同だったにもかかわらずしぜんとメロディーと歌詞はひとつらなりのものとしてわたしの頭のなかに定着した。
とはいえそれがだれが歌った何という曲なのかは知る由もなかったし、訊ねもしなかったのだが、中学生のころたまたまテレビの歌番組で耳にして、はじめて題名を知った。ときどき町で見かける素敵な女の子の名前をはじめて知ったような気分だった。一九五0年(昭和二十五年)生まれのわたしが中学生の頃だから昭和四十年前後のことで、すでに友人とのつきあいや部活動、つまり中学生なりの社会交際があったから、炊事をする母といっしょにいる時間はほとんど無く、母があいかわらず口ずさんでいたかどうかも曖昧なままなのだが、それでもテレビから流れるメロディにすぐ反応するほど記憶には残っていた。
「なつかしの歌声」という題名を知ったときノスタルジーという感情と軽快なメロディーの結びつきが意表を衝いているように感じたおぼえがある。そのうちに古賀政男作曲、西条八十作詞で昭和十二年に藤山一郎と二葉あき子のデュエットでレコーディングされた歌だと知った。
 
  〈銀座の町今日も暮れて
   赤き灯もゆ恋し東京恋し東京
   あの窓あの小道やさしの柳
   あこがれはかなしき乙女の涙
   風よ運べよ愛しの君へ〉
というのが一番の歌詞。
メロディーはかろやかで、とくに「あこがれは・・・・・・」のところの転調が甘さとともにいっそう軽快感を増していて、母もここのところをいちばんよく歌っていたような気がする。大正十二年生まれの母の若き日、何かこの歌にまつわる思い出があったのだろうか。
灯をともすころの銀座は美しい。いつだったか雨上がりの日に銀座四丁目の交差点からふと新橋方面の空に目をやると、塵が洗い流されたような黄昏どきの空気と淡いネオンの織りなす光景があり、魅せられてしばし立ち去りかねた。もちろんそこにはなにほどか「なつかしの歌声」のメロディと歌詞が作用している。
眼前の光景だけではなく銀座は過ぎ去った時代を喚び起こす街でもある。柳、カフエー、瓦斯燈、掘割・・・・・・体験した時代のことでなくてもノスタルジーは生まれるものらしい。
先年母が亡くなってからは銀座は母を思い出す町ともなった。あんなに「銀座の町」を歌っていたのに上京したのは両手にも満たない回数だったろう。それだけの縁しかなかったのにいまはわたしのなかでこの歌が母と銀座を結びつけている。  

二月八日
待望の「上海バンスキング」のDVDが宅急便で届いた。
先日Twitterを眺めているうちに「上海バンスキング」のDVDが発売されているとの記事が眼にとまり、瞬間、そんなことついぞ知らなかったわたしの胸で動悸が起こった。
一九九四年のシアターコクーン最終公演の録画はある。一昨年の十六年ぶりの再会公演も録ってある。
もちろんDVDで市販されたとなればいずれであっても購入はするが、もしかしてあのときの放送を収めているのかもしれないと願うように推測した。「あのとき」を配役でいえばリリーを余貴美子、左翼学生の弘田を中村方隆、方さんを鶴田忍が演じたときである。

あわててパソコンで検索して商品をたしかめたところ、一九八一年十月十日にNHKが放映した博品館劇場での舞台映像に、戯曲を書いた斉藤憐と主演の吉田日出子のインタビューを特典映像として付けたものとある。推測通りで、わたしの願いは叶えられた。さいきん発売されたらしい。
これはもう「事件」である。
さっそく註文を出した。たまたまはじめたTwitterだが、たいへんなニュースをもたらしてくれたものだ。
上海バンスキング」をはじめて見たのは放送のあったおなじ年の六月だった。舞台は京都のルナ・ホール。知ったのはNHKのニュース番組で、六本木の地下にある小さな劇場の芝居が評判を呼んで、こんど銀座の博品館劇場に進出するとの報道を見てなぜかピンと来るものがあった。翌日レコード店に行き、吉田日出子が歌いオンシアター自由劇場オリジナルバンドが演奏するLPレコードを買って毎日のように聴き続けた。

いよいよあの舞台が放送される。ところが家にビデオデッキはない。ゆゆしき事態であり、とつぜん火がついたようにビデオ機器を買ってくれと妻に頼むと「そんな余裕ないわよ」とつれない返事。ようやく拝み倒すようにして買ってもらったのもいまは昔。
ところがこのとき録画した「上海バンスキング」は十年ほど経ってテープが黴に犯されてしまい、廃棄のやむなきにいたる。そのあと一九九四年のシアターコクーン最終公演をNHKBSが放映してくれたので渇は癒されたもののやはり「あのとき」の映像だってほしい。それがDVDで甦ったのだ。それほどの歳でもないけれど、長生きしてよかったといった気持。贅沢をいってはきりがないが、オンシアター自由劇場が製作した映画も欲しいな。
こうしていま手許には「上海バンスキング」の三つの映像がある。そのかん三十年余の歳月が流れ、演ずるほうも観る者も年齢を重ねた。断続的であれ大好きで見つづけてきた芝居を持てたことは自身の生活にとても素敵な彩りをもたらしてくれている。わたしの人生で最も幸福なことのひとつはこの芝居と同時代でいられたことだ。

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