初春は荷風から

元旦
朝昼兼用の食事のテーブルにヨーロッパで買ってきたワインを置く。通販で取り寄せたおせち料理の解凍の具合を見るとまことによろしい。
おせち料理といえば永井荷風『あめりか物語』の一篇「一月一日」に東洋銀行米国支店の頭取某氏の社宅での新年会の光景が叙せられている。
〈締切つた広い食堂内には、此の多人数がニチヤニチヤ噛む餅の音、汁を啜る音、さてはごまめ、かづのこの響、焼海苔の舌打ちなぞ、恐しく鳴り渡るにつれて、「どうだ、君一杯。」の叫声、手も達かぬテーブルの、彼方此方を酒杯の遣り取り、雑談、蛙の声の如く沸返つて居た・・・・・・〉。
のちの『おかめ笹』につながってゆく諧謔かつ皮肉の効いた文章で新年会に群れる人びとの生態が捉えられている。そしてこの一文につづいては、群れから発する少数者をないがしろにする社会的圧力が俎上にのせられる。
となると荷風ファンとしてはおせち料理にはいささか忸怩たる思いも生じてくるわけだ。じっさいおせちもワインもなくてどうということはない。さりながらおなじ著者の「大窪だより」にあるように「成長したる子供が老父の心を慰むるなぞ申事は昔の事にて候。今の世は親とても金あればこそ親たるべき尊敬も払わる」るという事情も考慮しなくてはね。この記事、大正二年、一九一三年に書かれている。およそ百年後の世間の親たる者の行動規範はおのずとあきらかでしょう。

一月二日
箱根駅伝、母校に期待して応援するも、東洋大学がぶっちぎりの強さ。午後は国立競技場での全国大学ラグビー選手権大会準決勝にチャンネルを切り替えて、ときどき箱根の経過を見ていた。
第一試合の天理対関東学院。天理の10番を中心とした攻撃に心躍った。関東学院には復活のきざしを感じた。第二試合は帝京対筑波。はじめての国立出場の筑波に期待したが、ディフェンディング・チャンピオン帝京が筑波のやりたいラグビーをさせない。密集の連続で、なかなかバックスにボールを回さず、しかもラックからの球出しを意図的に遅らせている。チーム力に応じた勝てるラグビーをしているという主張はあるだろうが、ラグビーのたのしさはまったくといってよいほど伝わってこない。ゴールラインに向かい、ボールを持ってどこまでも走ってよい球技は意外にありそうでない。そうしたたのしさが感じられない。自分もテレビ観戦だからいえた義理ではないのだが、観客の入りが悪く、すこしばかりラグビーに関係した者としてはさびしい。

一月四日
退職したら永井荷風を体系的に、じっくり読もうと考えていた。ところが三月末の退職からいまお正月を迎えたのにまだ緒にも就いていない。荷風関連の本もたまっている。せめて年のはじめは荷風によせてと思い、一昨日から読みはじめた奥野信太郎荷風文学みちしるべ』(岩波現代文庫、近藤信行編)を本日読了。
前半はそれぞれの作品に即しての作品論、後半はいくつかの主題に即した荷風文学論、人物論といった構成である。
奥野は慶應の教授で、中国文学者、また軽妙洒脱な随筆家として知られた人。不明を告白しなければならないが、この人が荷風について一書に纏まるほど書いていたとは知らなかった。

所収の大岡昇平との対談に荷風とおなじ麻布市兵衛町に住んでいた奥野ならではの発言がある。
〈偏奇館へ曲るところ、あの角に田中銀之助という人のシャレた洋館がありましたでしょう。そこに桜の木があって、その桜の花が片々として散るというのを、荷風先生は書いておられますね。〉
断腸亭日乗』のなかでおそらくいちばん有名な箇所だろう昭和二十年三月九日東京大空襲、偏奇館炎上の記事にも「田中氏邸」は見えている。
この奥野発言で「おっ」となったのは田中銀之助という名前である。日本ラグビーのルーツ校は慶應義塾、いま日吉のグラウンドにはラグビー発祥の地として記念碑が建つ。一八九九年(明治三十二年)当時慶應の英文学教員であったイギリス人エドワード・B・クラークがケンブリッジ大学留学から戻った田中銀之助とともに慶應の学生たちに指導したのがはじまりだった。
一八七三年(明治六年)に生まれ一九三五年(昭和十年)に亡くなった田中銀之助は実業家として名を成した。荷風もそのことは知っていただろうが、日本ラグビー史の濫觴を飾る人物であるというところまでは知らなかっただろう。荷風と田中銀之助が御近所のあいだがら、大げさにいえば荷風ラグビー史との思わぬ接点に気がついたのはうれしい。
今シーズンから慶應義塾大学ラグビー部の監督を務める田中真一氏は田中銀之助の曾孫に当たる方で、このニュースによって、うろ覚えだった田中銀之助という名前がしっかりインプットされていた。『断腸亭日乗』の読者としてはもっと早く気づかなくてはいけないと反省しながらも、それはそれとして奥野信太郎の発言に「おっ」となったのは荷風好きにしてラグビーファンの余得と自身を慰めた。

一月六日
奥野信太郎荷風文学みちしるべ』につづいて近藤富枝荷風と左団次』(河出書房新社)読了。

歌舞伎界の風雲児、二世市川左団次荷風日記にはしばしば杏花、松莚の俳名で登場する。一九四0年に没した左団次は、晩年は荷風といささかの齟齬をきたしていたものの、それまでは「交情密のごとし」といった関係だった。一九一三年(大正三年)荷風三十五歳で妓八重次と結婚式を挙げた際の媒酌人は左団次夫妻だった。けっきょくは離婚するものの、その手前では左団次の妻登美が八重次の親元に走ってもいたようだ。
戦後、その登美が荷風に結婚を申し込んだという噂があるという。本書ではじめて知る「おっ」である。敗戦の年、荷風は六十六歳、登美は五十六歳。七十に近い荷風はまだ若々しく、近藤富枝は「登美の心が動いたとしてもおかしくない。登美もまた残る色香のただならぬ女(ひと)だったに違いない」と書いている。

一月七日
TOHOシネマズ六本木ヒルズでの「午前十時の映画祭」で「ブラック・サンデー」を観る。

ベトナム戦争で捕虜となった男を待ち受けていたのは妻の裏切りと世間の冷たい視線だった。男はテロリスト集団黒い九月と接触して手を結び、コマーシャル用の飛行船を操船して、アメリカン・フットボールの最高峰スーパーボウルの観客皆殺しを企てる。これを察知して食い止めようとしているのがイスラエル諜報機関のなにがしという少佐。大規模なテロをめぐって両者の死闘が繰り広げられる。
ちなみにこの種の映画の邦画代表は健さんの「新幹線大爆破」で決まりでしょう。
ジョン・フランケンハイマー監督「ブラック・サンデー」はとっくにビデオ化されて人気を呼んだ作品であり、当方も観てはいるけれど、これまで映画館での一般公開はなかったいわくつきの作品でもある。日本では一九七七年夏に劇場公開の予定だったのが「上映すれば映画館を爆破する」との脅迫で中止となった。
テレビで観てさえハラハラドキドキの興奮だから、大画面のスクリーンとなるとさぞやとたのしみに六本木ヒルズへ駆けつけたのだったが、結果は予想以上、しばし何をする力も気力もないほど身体は興奮で疲労していた。
六本木から神保町へ。ことし初の古本屋めぐり。小宮山書店のガレージ・セール(マニアのあいだではコミガレと称しているらしい)で磯田光一『殉教の美学』『正統なき異端』『砂上の饗宴』の三冊を五百円で。東京古書会館の地下で丸岡明『港の風景』、山川菊栄『おんな二代の記』、柳田泉福地桜痴』の三冊を七百円、あるいての帰り、本郷通りの東大前古本屋で奥野信太郎『随筆北京』を六百円で。お正月くらい置き場にビクビクなんかしないぞとエイヤッと購入。
さあ、ことしも映画ライフと読書のスタートだ。
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