「芝浜」余話

「江戸といいました時分には隅田川で白魚がとれたなんてえことをうかがっております。
広重の江戸百景なんぞみますと、大きな四ツ手網で白魚をとっている景色なんぞがございましたりな。篝火をたいて、四ツ手だとか刺網なんかを乾している江戸名所図絵なんてえものの佃島の景色なんかもすっかり昔のことになってしまいましたようで。」
三代目桂三木助「芝浜」の冒頭箇所を安藤鶴夫『わが落語鑑賞』から引いた。芭蕉の句が配されるのはこのすこしあと。
芭蕉の句に 明けぼのやしら魚の白きこと一寸 なんてえのがございますようですが、この時分の白魚はいちばん姿も美しくなにかこうあわれがございますようで。」

物語は女房に刻をまちがえて起こされた飲んべえの棒手ふりの魚屋魚勝が芝の浜に出かけるところにはじまる人情噺なのだが、三木助のそれを聞いていると、この出だしのところではや大川に舟を浮かべて白魚を肴に杯を交わしていた頃と喪失した風景へのノスタルジーが心中に漂う。
三木助のいう「江戸名所図絵なんてえもの」を開いてみると、芝浜は「芝浦」として立項されている。
「本芝町の東の海浜をいふ。芝口新橋より南、田町の辺までの惣名なり。」
「この地を雑魚場と号け、漁猟の地たり。この海より産するを芝肴と称して、都下に賞せり。」(市古夏生、鈴木健一校訂『新訂江戸名所図絵』ちくま学芸文庫
こばと呼ばれたところで獲れた芝魚はうまかったでしょうねえ。
そうして芝の浜は景色もよかったらしい。明治の作家、劇評家、漢学者として知られる依田学海の日記『学海日録』慶応三年(一八六七年)四月十四日の記事に「夕方より芝浜にのむ。(中略)海上の風景いはん方なし。鮮魚、亦地方の比にあらず」とあり、はからずも噺と『江戸名所図絵』の註釈となっている。
学海は天保四年(一八三三年)生まれだから当時は三十代半ば。佐倉藩江戸屋敷留守居役を命じられたのはこの日記に先立つ同年二月だった。
慶応三年は十月大政奉還、十二月王政復古という年であり、激動期に激務の任にあった学海がこの日芝浜に飲んだのも中津藩、松代藩小田原藩等の同職たちとの親睦と情報交換を目的としていて、心おきなくたのしめるあつまりではなかった。それどころか風景、鮮魚を讃えながらも「志同じからん人と来らましかばと思ひしなり」としるさざるをえなかった。義理で無理して出た酒席なのだった。
江戸屋敷留守居役については他藩との交際が繁く、規則や礼儀作法もうるさく、こまごまとしたところにまで及び、わずらわしいことはなはだしいと学海は嘆き、ある友人からは留守居役というのは愛想をふりまいて恥ずかしくもないような者を選ぶべきであって貴兄の如き硬骨漢はその選にあらずと評された。学海はそこを忍んで職務をまっとうした。とはいえこの日の芝の浜の景色と料理は胸中の憂さを晴らしてはくれなかった。政治がらみの酒を嫌ったのである。
鬱々とした気分のなかで、ああ、気のおけない友とこの芝の浜で酒席をともにできたらと思う学海の気持は痛いほどよくわかる。そうなると、ありし日の芝浜への慕情が余計に募る。

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余話の余話
高見順『如何なる星の下に』は戦前の浅草風俗を描いた名作だが、一九六二年(昭和三十七年)の豊田四郎監督による東宝映画は時代を昭和三十年代に、舞台を浅草から銀座界隈に置き換えている。

この映画について川本三郎『銀幕の銀座』(中公新書)に「舞台は築地川ぞいの、聖路加病院のしもたやということにした。築地川が埋めたてられてしまう寸前のことで、そうなれば佃島渡し船もなくなってしまうから、せめて下町の風物を映画の中に残しておきたいという気持も強かった」という金原文雄プロデューサーの製作意図が紹介されている。
同書には主演の山本富士子の「このへんも汚くなっちゃって」「二十年前は白魚もとれたのに」とのせりふも見えている。東京オリンピックを前に大きく変貌しようとしている銀座へのオマージュである。昭和三十七年の二十年前だと昭和十七年、開戦まもない頃くらいまでは築地川でも白魚がとれていたのだろうか。