「芝浜」のおかね

映画館での寄席というのはめずらしいが、池袋の新文芸坐では毎月一度落語会が催されている。九月は立川志の輔がトリで、「徂徠豆腐」を演じた。噺家はもとより講談ネタは好みということもあって大満足だった。
この夜、前座のトップバッターは桂三木男が務めた。母方の祖父が三代目桂三木助。四代目桂三木助は母の弟つまり叔父さんにあたる。
祖父も二つ目の頃に三木男を名乗っていたから三代目のファンとしては嬉しい名跡の復活で、現三木男自身祖父の録音を聴いて噺家を志したという。
そんなわけで久しぶりに三代目三木助の「芝浜」のCDを取り出し、御存知「江戸といいました時分には隅田川で白魚がとれたなんてぇことをうかがっております」ではじまる桂三木助の十八番を聴いていたところ遅ればせながらみょうなことが気になった。

古典落語のなかでも有名な人情噺だからいまさら全編のストーリーをしるすのは不要かもしれないが、未見未聴の方のために矢野誠一『落語手帖』(講談社α文庫)を参照しながら簡単に触れておきます。

裏長屋に住む棒手ふりの魚屋の勝五郎、腕はいいし人間も悪くないが大酒飲みで怠け癖がついている。その魚勝が女房に起こされていやいや芝の河岸に出かけたところ一軒の問屋もあいていない。女房が時刻を間違えて起こしていたのだ。
魚勝っあん、やむなく芝の浜で夜の明けるのを待っていたところ革の財布が浮かんでいるのを見つけた。家へとんで帰ってなかを見るとびっくりするほどの金額だ。これで遊んで暮らせると友だちを呼んでどんちゃん騒ぎをやらかした。
あくる朝、女房に仕事に行っておくれと起こされて、昨日の金があるじゃないかというと、財布なんて知らないとの返事。よくよく聞けば金を拾ったのは夢、どんちゃん騒ぎは現実というから念がいっている。
勝五郎、これを羞じて気をいれかえて一所懸命働き、三年後には店を構えるまでになる。その年の大晦日、女房は財布を出してきて「あのとき、金を使ってしまえば、おまえさんの気のゆるみは一生直らなかったにちがいない、だから夢といってごまかした。それにお上に届けないまま拾ったのが知れるとお縄ものだったろう。そのお金もだいぶんまえに持主不明により下されたが、しばらくはそのままにしておいた。だましてしまってすみません。腹が立ったら殴ろうとどうなとしておくれ」という。
とんでもねえと心から礼をいった魚勝、女房が久しぶりにつけてくれた酒に手をのばすが「よそう、また夢になるといけねえ」。

気になったのは勝五郎が芝の浜で拾った財布にあった額で、詳しい方なら、そんなもの四十二両に決まってらぁ、とおっしゃるかもしれない。『落語手帖』にも「家へとんで帰って、なかを見ると四十二両はいっている」とある。
ところがですね、わたしが聴いたCD「三代目桂三木助名演集(一)」(ポニーキャニオン)ではこれが八十二両なんです。聞き違いじゃないかとあらためて確認したところやっぱり八十二両。
そこで飯島友治編『古典落語 正蔵三木助集』(ちくま文庫)にあたると『落語手帖』とおなじく「おっ嬶ァ、四十二両あるぜ」。
他方、三木助の芸を讃え、親交もあった安藤鶴夫の『わが落語鑑賞』(ちくま文庫)では「おいッ、おい四十八両あるぜッ」。念のため申しますと「しじゅうにりょう」「しじゅうはちりょう」と読みます。というふうに四十二両、四十八両、八十二両と金額は一定しません。

よく知られるように古今亭志ん生桂三木助とは異なる「芝浜」の口演を通した。大きなちがいは芝の浜で財布を拾う場面にあり、桂三木助は勝五郎が芝の浜に座って夜明けを待ちながら女房への思いやら魚河岸の磯の匂いへの気持を吐露しているうちに財布を見つけるという抒情的な演出を行った。それが、志ん生の「芝浜」では、芝の浜で魚屋が寝込んでしまうと、次の場面では財布を持ち帰っている。それとここでは魚屋は勝五郎ではなく熊五郎だから魚熊さんだ。

つまり「芝浜」には桂三木助系統と古今亭志ん生系統があり、噺家は稽古をつけてくれた師匠の系統によって演じている。そこで京須偕充編『志ん朝の落語5』(ちくま文庫)にある「芝浜」(父志ん生の型を継いでいる)で財布の中身を見ると「いくらあったい?」「五十両あるぜ」ときた。
柳家権太楼の「芝浜」CDでも五十両金原亭馬生師匠に教わったというから古今亭系統で演じている。
四十二両、四十八両、五十両と較べると八十二両はずいぶんと大きい額だ。野暮な詮索めくけれどおなじ「落語国」にある噺でお金の多寡を比較してみましょう。
「富久」で富くじを買った野幇間の久蔵さん、買った夜にちびちび飲みながらお願掛けをひとりごつ。
「へい、大神宮さま、決してそのウ千両なんて図々しいことは申しません。二番富てえんですが、ええ五百両で結構なんで、五百両当たりゃアあたくし幇間をやめます。へえ、芸人をやめまして、堅気になります。どうぞひとつお当てなすって・・・・・・けど、なんだねえ、そのうち二百両もありゃアちょいとこう新道で小商ができようてえもんだねえ、そういやア表の小間物屋が売物に出ていたから、あすこをそッくり品物ぐるみ買い取ッちまお。たしか二百三十両てなことをいっていたようだから、さいです、そこを三十両負けさしまして、その三十両でへい、大神宮様の立派なお宮を作ります」(安藤鶴夫『わが落語鑑賞』)といった次第で、四十二両はもちろん八十二両でも表通りの店を買うほどの金額ではないようだ。
そうなると安藤鶴夫『わが落語鑑賞』にある「おッかあ、江戸中さがしたって四十八両も持ってる金持ちゃアひとりもあるめえッ」というところは「落語国」の経済事情からすればいささかリアリティを欠いている。
飯島友治編『古典落語 正蔵三木助集』にはこの言葉はなくて「これだけ銭がありゃァ、お前、商えなんぞに行かなくッても大威張りだァ。ぐゥッと好きな酒を何升飲んだって、びくともしねえや」とある。芝の浜で拾った金は猗頓の富というわけにはまいらないが、しばらく商いは止して酒にひたっているには十分で、こちらのほうが「落語国」の経済事情をよく反映しているようである。
昭和の名人として古今亭志ん生と並び称せられた八代目桂文楽はおなじ噺をどの高座でかけても一字一句違わなかったといわれるほど変わりなく演じた。完璧を期して余念のない姿またひとつの見識であるのはたしかだが、時間帯や客の反応によって演出を変えるのもまた落語の面白さであろう。桂三木助が芝浜で拾った財布を八十二両としたときは、ひょっとすると「落語国」は相当なインフレ状態にあったのかもしれない。