「闘魚」

「闘魚」は一九四一年(昭和十六年)の東宝作品。昨年没した池部良のデビュー作だ。監督志望ながら文芸部に配属されていた池部を、監督の島津保次郎が、これに出演すればそのうち自分の助監督にしてやると言って口説いたという。  
原作は丹羽文雄の新聞連載小説。
OLの笙子(里見藍子)は、肺を患った不良少年の弟、清(池部)の面倒を見ながら、銀座にオフィスのある、いまふうにいえば外務省の外郭団体のようなところに勤めている。海外への日本文化宣伝と理解促進を図る機関で、彼女はタイプも速記もできる当時のキャリア・ウーマンだ。母が亡くなったあと父は再婚していて、しかしその父は事業失敗の引け目もあり、後妻の手前笙子と清を避けている。清がぐれたり、姉弟の二人で生活しているのにはそうした事情がある。

笙子には商社マンで、出征中の婚約者俊記(灰田勝彦)がいて帰還を待っている。弟の病状は回復せず、彼女は尽力してサナトリウムに入れたのだったが、そのため入院費用がかさむようになり、知り合いの資産家が経営する民芸品売買の会社に転職する。ここで格式や家柄にこだわる婚約者の父母が経営者との関係を曲解し、あらぬ疑いをかけるようになる。困難つづきのなか笙子は清を援助激励し、清もそれに応えて治療に専心し、心身ともに更生する。ここでの池部良の坊主頭がういういしい。
サナトリウムは高原、林間、海岸などに建てられた結核療養所で、かつてのように結核が強く意識されなくなるとともにこちらの注目度も低くなったが、本作を含めむかしの映画ではときどきこのサナトリウムを見かける。戦後の作品では、五所平之助監督「今ひとたびの」(1947年)で高峰三枝子が入所していた。じっさいにサナトリウムで療養した人としては藤沢周平渥美清を思い出す。
俊記は復員し、笙子は事態の好転を期待したにもかかわらず、彼は破談状態にある局面を打開しようとはせず、双方から離れるべく海外への転勤を申し出るのだった。ここらあたりはなんだかなげやりな結末の付け方。じつはこれ厚生省が後援となって、結核とその治療についての理解を進めるために製作された映画で、そのためかどうかわからないけれど、だいじなのは結核治療であり、男女の仲などどうでもよいといった感じ。穿って解釈すれば厚生省は、煮え切らない俊記など放っておき、婚約を破棄された笙子がけなげに自立の道をあゆむ、「闘魚」の姿を描くことで、女性の自立を讃えるメッセージを秘かに込めたのかもしれない。
笙子と俊記との関係が不十分にしか描かれなかった代償として重んじられているのが結核についての正しい知識や対処法で、医者や警察官役の役者を通して姉弟に伝えられる。戦時色が表に出た作品ではないが、冒頭には「征かぬ身はいくぞ援護へまっしぐら」との標語らしきものが映される。戦地に征けない結核の身でいっときは援護役に廻ったとしても、結核を治療して戦地へ赴き一命を落とすと結果はおなじなんだけどねえ。
笙子は当時の自立したキャリア女性、帽子に象徴されるモダンさが印象的で、里見藍子という女優さんが好演している。笙子が銀座のオフィスから築地警察署へ清を引き取りに行く冒頭のシーンで、銀座四丁目の交差点を渡って急ぐその姿をキャメラが追う。おのずと銀座界隈の風景が映し出される。ファーストシーンにさっそく島津保次郎監督のモダニズム好みが見てとれよう。

この作品は一九四一年七月に封切られている。銀座を往来する人々がコートを着ていないのを見ると、撮影されたのはこの年の春あたりだろうか。街行く人たちのファッションにはまだ戦時色は感じられず、銀座の街並みもゆったりした雰囲気だ。しかし笙子のモダンなファッションもやがて許されなくなる。

永井荷風が『断腸亭日乗』に「毎月八日には婦女必百姓袴(もんぺ)を着用すべき由お触あり。又婦人日本服の袖を短くすべき由。新橋赤坂辺の芸者の中にはこのお触に先立ち百姓袴に元禄袖の黒門付を着て客の座敷へ行くもの少からず。追ゝ一般の流行となるべき形勢なりと云。」と書いたのは昭和十八年九月六日だった。芸者がもんぺに黒門付でお座敷を務める光景に荷風先生、憤懣やる方なかったが、それ以上に、芸者素人を問わず、女がもんぺを強制されるような時代はろくなものではなく、女の装いは自由で美しくあるべきだというのが荷風の文明批評だった。やがて笙子ももんぺを着けなければならない日を迎えるのを思えばその洋装は太平洋戦争を前にしたモダニズムの閃光と映るのだった。