戦時の若者たちとコリンヌ〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ四)

第二次世界大戦後、コリンヌ・リュシェールとナチスとのかかわりは日本にも伝えられた。ところがフランスやアメリカとはちがってこの国では忌まわしい女優とはならなかった、少なくとも忌まわしさの一色には染まらなかった。 『コリンヌはなぜ死んだか』にある書き手の思い入れをたっぷり注入した感傷的な新聞記事はそのことをよく語っている。

「戦前百万の日本の若者の”恋人”となって胸を焼いたあのせん細な美貌は、もうこの世にいない」「こうして”格子なき牢獄”を地で行った彼女は、裁判から五年目のいま、さびしく、幸うすき二十九年間の生涯を閉じたのである。あのせん細な魅惑的な容姿を再び開くことなしに……」。

もうひとつ中井英夫の所感をあげておこう。

一九二二年生まれの作家中井英夫はコリンヌが対独協力の廉で薄幸薄命の人生を送ったと聞かされたとき「妙に腹立たしく、特別弁護人か何かになって、いかに彼女の不良少女ぶりが魅惑的で美しかったか、それが戦争中の日本ではいかに得がたい貴重な喜びだったかを一席ぶちたい気持に駆られた」という。

もうひとり敗戦直後に「格子なき牢獄」をみた野坂昭如(一九三0年生まれ)は、昭和二十七八年ころある雑誌記事で「戦前、その清純な姿態で、わが国にもファンの多かったフランス女優コリンヌ・リュシェールさんは、ナチスドイツのパリ占領中、情報将校の情婦となって、一児をもうけた。パリ解放後、リュシェールさんは対ナチ協力のかどで、頭を丸坊主にされ、映画界から追放、流れ流れて、今はどうやらアルジェリアにいるらしい。しかも、下級船員、労働者を客とする最下等の娼婦にまでおちぶれ、さらに結核をわずらって、往年の容色はまったくなく、さながら幽鬼の如き姿」となっていると知り、結核なら薬を送ろう、アルジェで悲惨な生活を送っているならお金を貯めてアルジェへ行って救出しよう、ナチスドイツの非人道的行為は憎む、しかしどうして惚れた相手がレジスタンスの闘士ならよくてナチスの将校だったら非国民になるのか、と憤慨と同情を示した。

永井荷風の口吻を真似ていえば、糾弾されるべきは口に正義人道を唱え、裏で色と欲にまみれたエライさんであり、ナチス高官の愛人、妾、二号など何ほどのこともないのだった。

コリンヌが戦後にアルジェで娼婦となったという話は淀川長治吉行淳之介の対談「こわいでしたねサヨナラ篇」にもある。

 

吉行 ぼくは少年のころからコリンヌ・リュシェールが好きでしてね。

 淀川 いいですね。

吉行 それがいつもアニー・デュコーとセットでしてね。「格子なき牢獄」、その次の「美しき争い」。だんだんアニー・デュコーのほうがよくなってきて。コリンヌ・リュシェールは骨が固いみたいな気がしましてね。

淀川 でも、きれいでしたねえ。

吉行 ナチスに協力して、戦後売春婦になったらしいですね。買いに行きたかった(笑)ちょっと少年っぽいきれいさでしたね。

 

なお、野坂昭如「コリンヌ・リュシエール」は「朝日ジャーナル」昭和四十八年八月三十一日号、淀川、吉行対談は「小説新潮」昭和五十年四月号がそれぞれ初出で、ともに和田誠編『モンローもいる暗い部屋』(新潮社)に収められている。

戦前戦中の日本の男たち、とりわけ二十世紀の二十年代から三十年代はじめに生まれた男性にとってコリンヌはたんなる人気女優ではなく琴線に触れるなにかがあった。かれらの琴線には戦争が翳を落としていたのはたしかだろう。コリンヌは若い兵士や学徒出陣の学生たちの心情に訴えかけるなにかをもっていた。そして「格子なき牢獄」に兵営を思った若者にコリンヌはなぐさめであり貴重な喜びであった。

コリンヌ・リュシェールという存在は多くの若者たちをなぐさめ、「戦争中の日本ではいかに得がたい貴重な喜び」をもたらした。その記憶は彼女を忌まわしい女優ではなく悲運、薄幸の女優としたのだった。

一九七七年一月に「格子なき牢獄」がNHK教育テレビで放送された。番組には作家の遠藤周作がゲスト出演し、ホスト役だった映画監督の吉田喜重に「(コリンヌ・リュシェールは)われわれの青春時代の象徴である」といった趣旨の話をした。それにたいし吉田喜重が、彼女は戦争中ナチスドイツの高官の思い者になり、戦後、戦争裁判にかけられ獄中で病死をしていますと語ると遠藤は「そうですか」としばらく絶句し、目のやり場を失ったようだったという。

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