「恋人」

「恋人」(1951年新東宝)はたがいに恋心を抱いている幼なじみの男女が、けっきょくは結婚に踏み切れず、女の挙式の前夜、ともに最後の思い出として東京の街をさまよう、その一夜を描いた作品。梅田晴夫のラジオドラマ「結婚の前夜」を市川崑和田夏十のコンビが脚色、市川崑の演出により映画化された。
田切京子(久慈あさみ)は結婚式を明日に控えている。自分の意志で応諾したのだからいやいやながらの結婚ではない。だけど断ち切れない気持があって、その日、彼女は幼なじみで彼女に思いを寄せていると知る新聞社勤めの遠藤誠一池部良)に電話をして、独身最後の日をいっしょに過ごしたいとデートに出かけたのだった。
ロバート・テイラーヴィヴィアン・リーの「哀愁」を観ようと映画館へ行き、ダンスホールで踊り、最終電車に乗り遅れる時間までお酒をともにした。

二人は戦後が似合うさわやかなカップルだが、いわゆるアプレゲールの無軌道さとは無縁で、戦前の山の手の中産階級の雰囲気が漂っている。家庭的にも恵まれているようだ。
京子の両親(千田是也と村瀬幸子)は娘は誠一といっしょになるものと疑わなかったほどの仲だったのに、二人は結婚という最後の一線を越えられなかった。感情の高ぶりはあってもそれを押し隠したまま終わったのである。幼なじみから恋人までの道程は歩んだにもかかわらず最後のところで引いてしまった。友達関係と男女関係という人間関係の二つの要素をどんなふうに処理してよいのかとまどいがあったのかもしれない。
だから男にも女にも悔いは残っている。もしも男が明日の結婚は破談にして自分といっしょになろうと言ってくれたら女はついて行っただろう。男にその気持がなかったのではなく、根本のところが控えめで、面倒は起こさない常識人で、女にはじれったく、しかしそこが京子には魅力でもあった。
森繁久彌ダンスホールのマネージャーというちょい役で出演しているのがどうもなんだけれど、のちに久慈あさみ東宝の社長シリーズに森繁社長夫人としてレギュラー出演したのを思えば、京子の結婚相手は若き日の森繁社員だったとおぼしく、それゆえ「恋人」はこのあと一流企業の社長夫人、裕福で安定した家庭の主婦に納まった京子=久慈あさみの心揺れた日々を描いた作品と映るのだった。

微妙に揺れる女心と喪失の痛みを隠して彼女の結婚を見送る男心がほろ苦いメロドラマであり、小粋さと切なさがブレンドされた佳品。

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ストーリーからおわかりのように、結末は真逆だが「恋人」は「或る夜の出来事」を想起させる。そう、この映画は昭和二十年代にあのスクリューボールコメディの古典をアレンジしてメロドラマに仕立てた日本版「或る夜の出来事」として過言ではなく、ひょっとすると原作者、脚本家たちにハリウッドの名作は意識されていたのかもしれない。
その「或る夜の出来事」ではプレイボーイとの結婚を父親に反対された富豪の令嬢エリー(クローデット・コルベール)が家出して夜行バスに乗り込んだところ、上司とうまくゆかず馘を申し渡された新聞記者ピーター(クラーク・ゲーブル)と偶然に知り合う。乏しい持ち金をやりくりしながら令嬢の捜索を避けたりヒッチハイクで移動するうちに互いの恋心は強くなっていったが、なかなか素直になれない二人は意地を張りながら別れてしまう。けれど結婚式を前にピーターはエリーを奪い、エリーはピーターのもとに奔った。

「恋人」を観ているわたしもいつのまにか「或る夜の出来事」を意識していて、誠一は最後に花嫁の京子を奪いに行き、京子も煮え切らない男に業を煮やしながらそれでも彼のもとに奔るのではないかと一再ならず期待した。もっとも結婚式のあと誠一が京子の部屋を訪れてフラッシュバック形式で語られているのだから、そんなはずはないわけだが、それでも期待感があったのはハリウッドおなじみの花嫁略奪=奔る花嫁映画の影響だった。
或る夜の出来事」のほかにも「猛進ロイド」では、内気なロイド青年が令嬢を見そめてなんとかしたいと尽力するがうまくゆかず、最後は結婚式場に駆けつけ彼女もそれに応える。「カバー・ガール」では、恋人と喧嘩別れして、悩みながらも別の男と挙式するリタ・ヘイワースの花嫁を最後に別れた恋人ジーン・ケリーが駆けつけてハッピーエンド。おなじくミュージカルでは「略奪された七人の花嫁」というそのものズバリの題名の映画もあった。
こうして挙式を前にしてのどんでん返しはハリウッドの喜劇やロマンティック・コメディ、ミュージカルの定番のひとつである。
いつか王子様がやって来るという白雪姫物語がさまざまな変奏を経るうち、挙式寸前という一種の極限状態にあって、王子様の再来という条件のもと意志を貫徹する女性の姿が描かれはじめたのである。やがて、王子様の再来という条件が取り除かれたとき、そこに現れるのは自身の意志と決断で以て人生を切り拓いて行こうとする女性の姿にほかならない。くわえて、男女の関係が多様で開かれたものになればなるほど、ほんとうの恋人は、ほんとうの愛とは、といった問題に人々はとまどいを覚えるという逆説が発生する。挙式を前にしてのどんでん返しにメタファーとしてあったのはこれらのことがらだった。
昭和二十年代の日本で白雪姫物語は陳腐だったが、いっぽう花嫁略奪=奔る花嫁というハリウッド定番ドラマも成り立ちにくかった。そのあいだで生まれたメロドラマが日本版「或る夜の出来事」すなわち「恋人」だった。

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余談ながら挙式を前にしてのどんでん返しという定番劇の延長線上にはアメリカン・ニューシネマの代表作「卒業」がある。
大学を卒業したばかりの若者ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)がミセス・ロビンソンアン・バンクロフト)と知り合って関係をもつが、やがて婦人の娘のエレーン(キャサリン・ロス)と恋仲になり、嫉妬したミセス・ロビンソンはベンジャミンとの関係を娘にぶちまけ・・・・・・最後は教会にいる花嫁のエレーンのところへベンジャミンが駆けつけるというお定まりのシーンとなる。製作は一九六七年、時代はベトナム戦争のさなか。青春のロマンスを語っても、かつてのボーイ・ミーツ・ガールのノー天気な語り口では見向きもされない時代相のなかでハリウッドの定番は有閑マダムの不倫とともにほろにがさをもつにいたったのだった。