サッチモ祭


20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人、サッチモ(Satchmo)ことルイ・アームストロングが亡くなったのは一九七一年七月六日でした。その十年後の一九八一年、この偉大なトランペッターであり、歌手だった人を記念するサッチモ祭が東京の大丸デパート屋上で開催され、爾来同祭は今年で三十一回を数えています。
とはいえ、わたしはこれまでこの催しについては知らず、七月十八日に恵比寿ガーデンプレイス恵比寿ビール記念館で開かれるという記事をたまたまインターネットで見て、はじめて出かけた次第でした。
プログラムはオールド・ジャズを愛好するアマチュアバンドが多数参加し、フィナーレは「外山喜雄とディキシー・セインツ」による演奏で、これまでずっとこの形式を採ってきているとのことです。ちなみに「日本ルイ・アームストロング協会」の会長は外山喜雄氏で、同協会は、ニューオリンズの「サッチモの孫達」のような子供達に楽器を贈るなどさまざまな社会的活動に取り組んできておられ、今回は東日本大震災支援が大きく打ち出されていました。




「外山喜雄とディキシー・セインツ」をさいしょに聴いたのは一九八0年代のはじめ、水森亜土の夫君、里吉しげみの未来劇場の公演に客演したステージ、会場は銀座の博品館劇場でした。「ざんげの値打ちもない」の北原ミレイがディキシー・セインツの伴奏で「アイ・サレンダー・ディア」と「セント・ジェームズ病院」を歌っていた記憶があるのですが、ここのところははっきりしません。



外山喜雄はサッチモとおなじくトランペットとヴォーカル。しかもそのヴォーカルはサッチモのだみ声そっくりで、人間、訓練すればここまでになれるのかとびっくりでした。それと奥様の外山恵子さんがピアノを弾いたあと、すぐにバンジョーに持ち替えて演奏する姿がすごくかっこよかった。
外山喜雄氏は一九四四年、東京生まれ。早稲田大学のニューオルリンズ・ジャズ・クラブに入り、ここで恵子さんと出会い、結婚。六八年には夫婦でブラジル移民船に乗り込みニューオリンズへ。以後、ジャズの故郷でジャズを学び七五年に「外山喜雄とデキシー・セインツ」を結成します。今回この記事を書くために仕入れた知識です。
つまり、わたしがはじめて「外山喜雄とデキシー・セインツ」に接したのは結成されてまだ六年か七年しか経っていない頃だった、ということになります。三十年の歳月がもたらした変化で言えば、外山喜雄氏はわが国ニューオリンズ・ジャズの第一人者としての貫禄が漂っていました。いっぽう外山恵子さんは昔と変わらぬピアノとバンジョーの素敵な女性です。
じつは彼女は慈善活動の際に右手首の上の腕の部分を骨折したそうで、包帯を巻いておられ、そのため今回はピアノ中心でしたが、バンジョーではクラリネットとのデュオで名曲「古い十字架」を演奏してくれました。骨折の具合によってはミュージシャン生命に関わる事態なので演奏する姿を見てほっとしました。

第三十一回サッチモ祭に参加していたのは「早稲田大学・ニューオルリンズ・ジャズクラブ」から「大丸・リユニオン・ジャズメン」まで十五のアマチュア・グループとひとつのプロ楽団、いずれもオールド・ジャズに魅せられ、その演奏スタイルを信奉し、とことん追求している人たちです。ある演奏スタイルを追求しつづけるのはミュージシャン人生のひとつのありようであり、なかなか出来そうで出来るものではないように思われます。そうさせるのは古典ジャズへの強い愛情にほかありません。
サッチモ祭が終わり、外へ出ると、屋根付きの中庭で恵比寿ガーデンプレイス・スターライトシネマがはじまろうとしていました。今宵は「川の底からこんにちは」。変則ダブルヘッダーは予定になく帰宅しましたが、石井裕也監督のこの作品、そのうちブログで採り上げたいなと思っているうちに、この六月、次作「あぜ道のダンディ」が公開されました。いずれもわがオススメ作品であります。

帰宅の道すがら、家にあるのはスコッチ・ウイスキーのみと気がつき、サッチモ祭の日はバーボンでなくてはとさっそく購入。東日本大震災へのカンパでいただいたコースター(さいしょの写真)を敷いたグラスにバーボンを注ぎ、「真夏の夜のジャズ」を見ながら、ルイ・アームストロングと共演する名トロンボニスト、ジャック・ティーガーデンのふたりを偲びました。