野口冨士男の昭和十六年十二月八日〜「スミス都へ行く」

昨年八月の本ブログのさいしょの記事『映画となると話はどこからでも始まる』で、わたしは太平洋戦争直前まで「コンドル」や「スミス都へ行く」といったアメリカ映画が上映されていたとの淀川長治の回想を紹介したうえで〈日米開戦を前にどのような客層が映画館へ詰めかけ、どのような思いでアメリカ映画を観ていたのだろう。開戦の日にまでアメリカ映画を観ていた人の手記などあればぜひ手にしてみたい。〉と書いた。
野口冨士男に『いま道のべに』(講談社1981年)という、山手線のいくつかの駅にことよせて若き日の自身の軌跡をたどった連作私小説集がある。ブログの記事のあと必要あって本書を手にしたところ、そこに著者が昭和十六年十二月八日開戦の日に妻子といっしょに「スミス都へ行く」を新宿の映画館へ観に行くくだりがあった。
野口冨士男(1911-1993)はわたしにとってとても大切な作家であり、『いま道のべに』は以前に読んでいて、おまけに開戦の日を語った頁には附箋を貼ってあるにもかかわらず「スミス都へ行く」については完全に蒸発してしまっていた。この日の野口のことをすべて忘れていたわけではなかったが不明にはちがいない。
『いま道のべに』で開戦の日に触れた作品は「消えた灯ー新宿」。おなじくこの日のことを語った作品としてもう一篇「その日私は」がある。こちらは『野口冨士男自選小説全集 上巻』(河出書房新社)に収められている。ふたつの作品から開戦の日の野口の行動と感情をたどってみよう。
執筆が深夜、朝方におよぶためいつも起床がおそい野口をそのまま寝かしておけないと妻が起こしたのは十二月八日正午頃だった。衝撃のニュースが隣家のラジオから聞こえてきたからだ。
日本が戦争をはじめたようだと言う妻に野口が相手はどこだと訊くと、アメリカらしいと返事があった。交戦国を問うたのはソ連の可能性を考えていたからだ。
 野口はとっさに「じゃ、出かけるから支度をしろ」と言った。戦争となれば敵国の映画は観られなくなる。三越新宿店の裏手にある昭和館(のちに東映任侠映画の砦となるあの昭和館の前身)で「スミス都へ行く」が上映されており、もう中止になっているかもしれないがやっていればぜひ観ておきたかった。
支度云々の夫の言葉に妻はどこかへ避難するつもりかとおもったとのちに話している。こうして夫妻はまもなく満一歳になろうとする男の子をつれて渋谷区幡ケ谷の自宅から新宿へと向かった。
野口は「ある夜の出来事」以来フランク・キャプラ監督作品のファンだったし、それに「スミス都へ行く」の主演女優はお気に入りのジーン・アーサーだったから是非もなかった。この作品でジーン・アーサーは表向きはジェームズ・スチュアート扮するぽっと出のスミス上院議員の秘書、じつは悪徳議員たちから派遣されたお目付兼通報役である。しかし青年議員の素朴な人柄と正義感と情熱に心をうたれ、やがてかれを助けるようになる。いわば究極のところでアメリカのデモクラシーを支えるヒロインである。
野口は今生の別れになんとかしてジーン・アーサーの声を耳底におさめておきたかった。彼女の容姿にも惹かれていたが、すこしハスキー気味なその声が魅力で、「オペラ・ハット」や「歴史は夜作られる」「平原児」などはいずれも二度観て、二度目は時どき瞼を閉じながら声だけに聞き入っていたほどだった。
昭和館の客はまばらで野口の家族を含めて十名余りしかいなかった。映画館の右隣のカフエーからはスクリーンの声を掻き消すほどに傍若無人な感じで日本の緒戦の勝利を告げるラジオ放送と軍艦マーチが間断なく鳴りひびいていた。
勝ち味のまったくない米英を敵にした日本はもうダメだと考えていた野口は雑音のあいだからなんとかジーン・アーサーの声を聞き取ろうとし、声が聞こえないときは彼女の顔だけを食い入るようにみつめていた。その日の野口にとって「スミス都へ行く」はジーン・アーサーに接する、ひいては欧米の文化に触れる最後の機会だった。かれは戦争とは異質なものを懸命になって求めようとしていた。

開戦の日ではなかったけれど当時「スミス都へ行く」を観た体験を語っている作家に安岡章太郎がいる。一九二0年生まれだから野口より九歳下で、慶應義塾大学文学部予科生だった。安岡はこの映画を昭和館ではなく、おなじ新宿の武蔵野館で観ている。
安岡は自身の映画遍歴を語った『活動小屋のある風景』(岩波書店1990年)で、娯楽も厳しい統制下に入ったなかで「スミス都へ行く」は十月にSY(松竹)系で封切られたあと、東宝系の日比谷映画劇場などでも上映され、久しぶりのまともな外国映画としてファンに歓迎されており、武蔵野館では、議会でのジェームズ・スチュアートのしぐさに観客がドッとわいていたと書いている。
そこには、国会を大政翼賛会が占領し、現役の陸軍大将が首相をつとめる戦時日本への絶望とスミス議員を通しての民主主義への儚いあこがれがあったという。それは映画館の暗闇にいたこの若者が抱いていた心情でもあっただろう。

はなしを野口冨士男にもどすと、開戦の日の「スミス都へ行く」のときの男の子が平井一麥氏で、氏は先年『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書)で、野口冨士男に昭和八年からはじまり、途中十五年なかばから十九年なかばまでの中断をはさみながら平成五年の死去寸前まで書かれている日記があることを明らかにした。
さらに平成十九年に野口冨士男の「自筆年譜」が見つかり、この発見を機に氏は父の書誌作成をこころざし、それが昨年五月に平井一麥編『人物書誌体系42  野口冨士男』(日本アソシエーツ)として実を結んだ。
本書には「自筆年譜」にくわえ日記や作品を典拠とするたくさんの事項が記載された「年譜」があって、昭和十六年十二月八日を見ると、〈大東亜戦争勃発。これが最後になると思ってアメリカ映画〈スミス都へ行く〉を新宿昭和館へ観に行く。〉との記事がある。
ここで問題としたいのは「スミス都へ行く」の上映期間についてで、さきほどの『活動小屋のある風景』にはつぎのようにある。
〈人間の記憶は不確かなもので、私は『スミス都へ行く』は太平洋戦争の前日、つまり十二月七日、日曜日まで武蔵野館その他、SY系の封切り館で上映していたように思い込んでいたが、こんど当時の記録をしらべてみて、その映画は十二月七日にはすでにSY系の二番館に廻っていたことがわかった。しかし、どっちにしてもこのアメリカ製民主主義鼓吹の映画が、当時の日本で最後まで上映禁止にもならず公開されていたことは、いま考えれば却って不思議なことのようでもある。〉
この一文では「スミス都へ行く」は十二月七日、日曜日までの上映である。十二月七日以前に武蔵野館その他封切館から二番館(昭和館もそのひとつだったのだろう)へ廻り、そこでも十二月七日までだったとされている。『映画となると話はどこからでも始まる』における淀川長治の回想談でも「スミス都へ行く」は開戦直前までの上映と述べられていた。
しかし「消えた灯ー新宿」と「その日私は」の二篇の小説および野口の「自筆年譜」を典拠にすると「スミス都へ行く」は開戦の日の十二月八日にも上映されており、淀川長治安岡章太郎両氏の回想とは異なっている。
もとより私小説にフィクションの要素はあって当然なのだが、この日のことを書いたふたつの小説の「スミス都へ行く」をめぐる箇所に作為がほどこされているとは考えられない。その作為を基に自筆年譜が書かれたとはさらに考えにくい。
大本営陸海軍部午前六時発表の開戦のニュース第一報は、ラジオが七時十八分の臨時ニュースで伝えている。この時点で、交戦国の映画は上映禁止という通達や業界の申し合わせがあれば、いずれの映画館も従っていただろうから、そこまで手が廻っていなかったのではないか。多くは自主規制に動いただろうが、新宿昭和館では開戦の日になお「スミス都へ行く」が上映されていたのだった。