野口冨士男の昭和十六年十二月八日〜ノモンハン事件

野口冨士男『いま道のべに』の一篇「消えた灯ー新宿」に開戦の日のことが書かれてあり、その頁にわたしは附箋を付けていたと前稿に書いた。そうしながら、この日に野口が妻子とともに昭和館で「スミス都へ行く」を観た記述をまったく失念していた。
言い訳めくけれど、開戦の日の野口冨士男のことをすべて忘れてしまっていたわけではない。そこのところの事情をすこし述べてみたい。
妹尾河童『少年H』(講談社)は昭和の十年代つまりあの戦争の時代を少年の眼で描いたベストセラーで、一九九七年の毎日出版文化賞・特別賞を受賞している。
ところが本作についてはあまりに事実誤認、捏造が多いとして山中恒、山中典子両氏が『間違いだらけの少年H』(辺境社)できびしい批判をくわえた。わたしがこれを知ったのは、「週刊文春」一九九九年七月二十二日号に載る高島俊男氏の「タイムスリップ少年H」という一文だった。当時連載中だった「お言葉ですが・・・」の一篇で、高島氏も『間違いだらけの少年H』の著者たちの見解を支持している。
ならば『少年H』のどのようなところが批判されているのか具体的に見ておきましょう。
たとえば一九三九年八月に調印された独ソ不可侵条約に基づくポーランド分割占領の秘密議定書。ドイツとソ連の相互不可侵と第三国との戦争の際には他方は中立を維持することを取り決めた独ソ不可侵条約は世界に衝撃をもたらし、ドイツと防共協定を結んでいた日本でも平沼内閣が「複雑怪奇なる新情勢」の出現として総辞職した。条約にはポーランド分割占領を取り決めた付属の秘密議定書があった。もちろん当時の日本国民はこの議定書については知らず、わかったのは戦後になってからだったのに『少年H』の主人公は両国が秘密の約束を取り交わしているらしいと知っている。
あるいは斎藤隆夫の反軍演説問題。一九四0年(昭和十五年)二月第七十五議会で立憲民政党斎藤隆夫日中戦争処理に関して軍部批判の演説をすると陸軍は強硬意見を提出し、それに迎合する院内会派の賛成多数で斎藤の除名が可決された。この事実も国民が知ったのは戦後になってからだった。
そして一九三九年五月に勃発したノモンハン事件。モンゴルと満州との国境ノモンハン地区で日ソ両国が衝突した出来事で、ソ連は空軍、機械化部隊を繰り出し、関東軍の精鋭部隊に壊滅的打撃を与えた。これにより対ソ開戦論は後退したといわれている。戦前にはノモンハンでの大敗北を国民は知らされておらず、知ったのは戦後であるにもかかわらず『少年H』は知っていた。
事件が起こったのと人々がそれを知ったのがおなじというのは戦後の感覚であって戦前、戦中はそうではなかった。しかるに少年Hは、戦後になってからの知識、感覚、それに教育の成果やら民主主義的思潮やらをそっくりかかえこんで戦中にタイムスリップしてものを言っているというのが『間違いだらけの少年H』『お言葉ですが・・・』の立場だ。
ここで注目したいのが開戦の日の野口冨士男夫妻のやりとりで「消えた灯ー新宿」の該当箇所を引く。
〈「お父さん、日本が戦争をはじめたらしいですよ」
 いかなる時代になろうとも、私の宵っぱりで朝寝坊という習慣は崩れることがなくて
その日も私は午ごろまで眠っていたが、女房に言われて眼をさました。
 ひょっとするとノモンハンでの惨敗に報復をしようとしてソ連と開戦したのではないかと考えた私が敵はどこだと訊くと、私を起さないために隣家のラジオを聴いただけでよくわからないが、と言いながら女房は答えた。 
〈「アメリカらしいです」〉
このあとに〈じゃ、出かけるから支度をしろ〉と言って新宿昭和館へ出かける場面がつづく。わたしの附箋はひとえに開戦のニュースを妻から聞いた野口冨士男ノモンハンでの惨敗に報復をしようとしてソ連と戦争をはじめたのではと考えた箇所にかかっている。
『間違いだらけの少年H』『お言葉ですが・・・』の観点からすれば、どうして野口は事件を知っていたのか疑問を覚えざるを得ない。

野口冨士男が肺門淋巴腺腫脹のため高熱を発し、四十日欠勤して都新聞社(現東京新聞社)を解雇されたのは二・二六事件のあった一九三六年の七月だった。この年十二月に河出書房から刊行が予定されていた「知性」編集委員として同社に入社。しかし「知性」は発行に至らず野口は翌年二月に退社する。
翌々年三九年七月に野口は青木書店の書房主青木良保が応召されたため嘱託として青木書店に勤務する。ちなみにノモンハン事件が起きたのはこの年の五月だった。翌四0年に結婚。四一年七月には神田錦町にあった大観堂出版部を短期間あずかっている。
以上いずれも平井一麥編『人物書誌体系42  野口冨士男』の年譜による。
野口はノモンハンでの日ソ両軍の衝突や関東軍の大敗北といった枢要機密をどうして知っていたのだろう。一時期、都新聞社に勤めるジャーナリストだったとはいえ、国家機密に接するような立場にはない。ならば野口は『少年H』とおなじくあとづけの知識を小説に用いたのだろうか当時の野口はノモンハンの出来事を知るはずはなかったとするならば、かれは日米開戦を印象深くするために、事件をあとからとってつけて日ソ戦争の可能性に言及し、そうして、アメリカ文化に接する最後の機会として「スミス都へ行く」を観に行ったというストーリーにしたとでも考えるほかない。
それにしては野口冨士男の書きぶりはたんたんとしたものだ。偶然にも枢要機密を入手していたとか、あとづけの知識を用いてまで開戦の日の自身の姿をえがこうとすれば、もっとドラマチックな筆致になるだろう。
小説にあるとおり、野口はノモンハン事件を知っており、日ソ開戦の可能性を感じていたとおもう。換言すると、独ソ秘密議定書や斉藤隆雄の反軍演説はともかく、ノモンハン事件にかんしては『間違いだらけの少年H』の著者および高島俊男氏の所説を疑ってかかるほうが理に叶う。
ノモンハン事件は近代的装備を具える相手との最初の戦いであり、言うまでもなくその敗北は軍部にとって大きな衝撃だった。遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史 新版』(岩波新書1959年)によると事件後、植田謙吉関東軍司令官は引責辞職し、また精神力とならんで物力も顧慮しなければならぬと暗に損害の甚大をみとめる陸軍当局談を発表する異例の措置もとられた。
一九三三年に文藝春秋社に就職し、のち同社社長になった池島信平の回想記『雑誌記者』(中央公論社1958年)には、同氏がノモンハンの空中戦に参加した陸軍の航空将校による座談会を企画し、実施したくだりがある。座談会記事がじっさいどのような扱いになったのか調べはついていないけれど、『昭和史』の記述やこの座談会の企画は、公式報道がなくても、ノモンハン事件にかんしては、野口冨士男をふくむ多くの国民が知っていたとしてかくべつの不思議はないことを窺わせる。