白山花街跡


十年ほど前、そのころはまだ路地の奥にある三、四の家屋に待合か料亭の軒燈が飾られていて、ここがかつての小石川指ケ谷町、白山花街の跡であろうと眺めたおぼえがある。ほんとうにここだったかと詰められると百パーセントの自信はないけれど拠り所とするのは敷石道である。
大正はじめの白山の色町が舞台のひとつとなっている永井荷風『おかめ笹』には「片側は広い溝を控えた屋敷つづき片側はごみごみした小家の間に待合や芸者家の立交つた」とある。
野口冨士男は『私のなかの東京』で、白山を「今なお大正時代の東京山ノ手花街の面影をとどめているただ一つの場所なので、私はここへもぜひ行ってみることをすすめたい」と書いている。一九七八年(昭和五十三年)刊行時に本書を知っておればよかったが二十代のわたしは著者の名前すら知らなかった。本書を読んで白山へと急いだときわたしはもう四十台のなかばに達していた。