『映画となると話はどこからでも始まる』

スローボートの就航です。本や映画の話題のさいしょは淀川長治蓮實重彦山田宏一『映画となると話はどこからでも始まる』(1985年勁文社)を採り上げてみます。お三方の鼎談本はほかにもあるけれど、この書名で決まり。
ここで主旋律を奏でるのは淀川長治さん(1908-1998)。蓮實、山田の両氏はよき伴奏者かつ編集者で、念のため申し上げておくと伴奏も編集も創造にほかならない。
 素晴らしい伴奏者と編集者を得て淀川さんのおしゃべりが快調だ。淀川さんのおしゃべり本は親しみのあるいっぽうで口調つまり文体に変化が乏しく単調に傾きやすい憾みがある。対談や鼎談はその難点を救うひとつの方法で、良質の絡みやツッコミが淀川さんから話を引き出し、引き立てる。とはいえあの淀川さんに絡みやツッコミを入れられる人はざらにはいず、蓮實、山田のおふたりはその意味で貴重な存在なのだ。
といったところで本書の魅力を思いつくままに述べてみます。以下敬称略。
まずは映画の生き字引が語る映画にまつわる風俗誌のおもしろさを挙げておかなくてはならない。たとえば「昔は分かれていなかったけど、大正の終わり頃から男と女が別々に坐らせられたのね。おかしいね。夫婦ものは真ん中に入れられたの」といった思い出が語られる。これは氏が住んでいた神戸もしくは関西での話なのか、それとも全国で実施されていたのか、夫婦かどうかは申告させていたのか、恋人たちがいっしょにいたいために夫婦ですといってそれがばれたらどうなったのか、そしていつ頃までこんなことをやっていたのか、といった疑問がたちどころに浮かんでくるのだが、それはともかく映画の風俗誌として貴重な証言であろう。
あるいは関東大震災を境に活動写真という言い方が映画に変わったとの説の当否を訊ねる山田に、淀川は大正十年前後に公開された名作「ウーマン」や「散り行く花」を挙げてこの頃にはもう活動から映画になっており、活動写真は大正五年頃までだったと答える。これにつづけて銀幕という言葉は大正の終わりには使われていたとも。
淀川長治は長年にわたり、たぶん本人が意識していた以上に映画という定点で社会と歴史を観察していた人だった。だから氏の映画をめぐる体験談はおのずと映画と時代がどんなふうに交叉していたのかにつながる。本書の後半では三人の論者がそれぞれのベスト100をリストアップしてゆくのだが、なかで淀川は「コンドル」(ハワード・ホークス監督)を挙げ、開戦前日まで多くの客がつめかけてこのアメリカ映画を見ていたことでも印象深いと述べている。
 おなじくフランク・キャプラ監督「スミス都へ行く」も日米開戦直前まで上映されていたとの由。

田舎でボーイスカウトのリーダーを務めていたスミス青年(ジェームズ・スチュアート)が上院議員の空席を埋めるため担ぎ出される。それには世間知らずの青二才で御しやすいとの悪徳政治家たちの意図があった。ところがこの目論みとは反対に彼は熱意をもって職務にあたり、やがて議員の汚職問題を知る。腐敗した政治の世界にたった一人で抵抗する男の姿を通して古き良きアメリカ精神を謳歌したこの作品が日米開戦直前の日本で上映されていたのだった。さらには開戦の日にもまだ「空の要塞」というアメリカ映画をやっていた劇場があってさすがにお上からお叱りを受けたという。いずれも教科書の歴史では窺い知れない民情の一端を示すエピソードだ。 
日米開戦を前にどのような客層が映画館へ詰めかけどのような思いでアメリカ映画を観ていたのだろう。開戦の日にまでアメリカ映画を観ていた人の手記などあればぜひ手にしてみたい。
そして何といっても最大の魅力は淀川、蓮實、山田の三人がつぎつぎと繰り出し語る映画の数々で、それは万華鏡のごとき輝きを帯びており、まさしくザッツ・エンターティンメント。なかでもいままで観たのはもちろん聞いた覚えもない作品が話題になると羨ましさとともに、いつか必ず観てやろうといった意欲が湧いてくる。これぞ生きる力。
たとえば山田宏一が挙げる「ものすごく面白い冒険活劇」「欲望の砂漠」。氏は「レイダース/失われた聖櫃」を観たとき、「欲望の砂漠」を思い出してこちらのほうがずっと面白かったと語る。こう聞かされては映画ファンとしてはじっとしてはいられない。バート・ランカスターがまだ若くて、ポール・ヘンリードが悪役で、クロード・レインズとかピーター・ローレといったぜいたくな脇役がいて、リタ・ヘイワースによく似たコリンヌ・カルヴェという女優が出ている。この女優とバート・ランカスターを除くとそこはもう「カサブランカ」に通ずる世界ではないか。>監督はウィリアム・ディターレ。山田によればこの人は「欲望の砂漠」につづいてジョセフ・コットンとコリンヌ・カルヴェを主役にスタンバーグの「上海特急」をリメイクした「ちょっとB級活劇っぽい」「北京超特急」を撮っている。
このディターレ監督について山田が第二次大戦前から巨匠だったのですかと訊けば淀川はたちどころに「大変な人ですよ」と答える。すると蓮實がディターレはドイツからアメリカへマックス・ラインハルトといっしょによばれて渡ったと蘊蓄を傾ける。つぎには淀川が一九五四年に渡米した折り、同監督がMGM撮影所で「巨象の道」を撮っていて、エリザベス・テーラーに演技指導をしていた場面を語る。
「欲望の砂漠」「北京超特急」「巨象の道」・・・・・・観てみたいなあ。じっとしちゃいられない。スローボートがだいぶんせわしなくなったところで、きょうはここまでとします