小津のことばつかい

一九二七年(昭和二年)の春、田口商店というドイツ映画を輸入する会社に岩崎昶(1903-1981)という青年が就職する。東京府立一中、第一高等学校、東京帝国大学独文科というエリートコースを経たこの若者はすでにシナリオやドイツ映画の評論を書いており、その経験が買われての入社だった。
田口商店のオフィスは数寄屋橋通りと並木通りの角にある対鶴館ビルの二階にあった。窓からは服部時計店の時計台や数寄屋橋の下にお濠の水が流れているのが見えた。もっとも会社は一年ほどで経営に行き詰まり倒産したから岩崎にとってはわずかな期間の会社勤めであったが、のちに映画評論家、プロデューサーとなる若者の眼に、この頃の銀座の風景は忘れがたく、晩年に執筆した回想録『映画が若かったとき』(平凡社1980年)にはこの街の情景が魅力的に記されていて印象深い。

〈そのころの銀座通りは、過密でも過疎でもなく、ほどよい人波で、華やかなさざめきを織りだしていて、ただ眺めていても何となく楽しかった。通行人も銀座を歩いているという一種の晴れがましさをもって、表情や身振りにも張りがあり、なごやかな生気がみちみちていた。ことに晩春から初夏には街路樹の柳の梢を渡る風も快くなまめいて、モダン浮世絵の風情があった。一九二0年代の東京は、要するに銀座の時代であった。〉
昭和初期の銀座の魅力が立ちのぼってくるような文章だ。関東大震災から復興した昭和のはじめの東京は伝統とモダンが微妙に調和した時代だったみたいで〈モダン浮世絵の風情〉という表現にもそのことが窺われる。
ある日、岩崎が会社の窓から銀座通りを眺めていると行き交う人のなかに知人の姿が見えた。気をつけていると通りをはさんで日本昼夜銀行があり、その人は毎日必ずといってよいほどこの銀行にやって来る。松竹の映画監督で「隣の八重ちゃん」(1934年)や「兄とその妹」(1939年)で有名な島津保次郎(1897-1945)である。
銀行に出入りするのはなんの不思議はないけれど日参となると話は違ってくるので、ある日、岩崎は友人の小津安二郎(1903-1963)に島津の件を持ち出すと、小津はひとこと「島津オヤジは趣味貯金だからな」と言って笑った。
後日、岩崎は島津本人にこの話をしたところ、監督は「岩崎ケ、見てたの?・・・・・・人が悪いんだな!」とこちらもあけっぴろげに笑うばかりだった。こうしてこの件は終わったが、あとで岩崎は島津に愛人がいて昼夜銀行の口座はどうやらそちらの関係のものらしいと知る。小津の口にした「趣味貯金」には島津の女とカネへの皮肉とユーモアが含まれているようでもある。「趣味貯金」は小津がその場でとっさに思いついたのか、それとも島津オヤジの秘密を知る周囲がひそかに監督をからかう符丁として用いていたのだろうか。
もうひとつ「岩崎ケ」のケの問題がある。これについて岩崎は岩崎兄といいたいのか、岩崎家なのか不明ながら、島津監督は、某某君という代わりによくケを愛用していたと述べている。
じつはこのケは小津安二郎も口にしていた。一九二九年小津の「若き日」で撮影助手となり、その後、一九三七年の「淑女は何を忘れたか」から遺作となった一九六二年の「秋刀魚の味」まで小津の松竹作品のすべてで撮影を担当したのが厚田雄春(1905-1992)で、小津はこの名キャメラマンを親しみを込めて「アツタケ」と呼んでいた。

小津とアツタケ(『小津安二郎物語』表紙より)

蓮實重彦による厚田へのロングインタビュー『小津安二郎物語』(筑摩書房1989年)には「厚田兄ぇ、まずいぞ」とか「厚田兄ぇ、どうだ一杯」といった小津の言葉が見えている。本書は厚田の在世中に上梓されているから厚田も目を通してこの表記を認めている可能性が強く、だとすれば厚田はケは兄と理解していた。
ところが小津と親しい人のなかにはケは家と受け取っていた人もいた。井上和男編・著『陽のあたる家 小津安二郎とともに』(フィルムアート社1993年)に収められた厚田カメラマンへのインタビューで、厚田は小津が昔から「厚田家、アツタケって可愛がって下さった」と語っている。ここでの表記は編著者の井上和男によるものだと思われる。小津組出身の監督、プロデューサーで『小津安二郎 人と仕事』『小津安二郎全集』をまとめ、「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」の監督はケは家としていた。島津、小津ふたりのヤスジローのケは兄か家か、疑問はなお解けない。
岩崎昶は島津の銀行出入りを小津に話したように、ふたりは親しい関係にあった。『映画が若かったとき』によれば、大正から昭和初期にかけての映画界には、松竹だ日活だといった狭い企業意識はなく、アメリカの映画会社の社員や映画ジャーナリズム関係者を含めてまだ少人数で、コミュニティとしてまとまりやすい環境にあり、みんな気のおけない友人になっていったという。松竹がまだ蒲田にあった頃は小津安二郎を中心とする北村小松、池田忠雄、伏見晃らシナリオグループとか鈴木伝明その他の若い俳優たちが仕事を終えると必ずといってよいほど銀座へ出て「銀ぶら」を愉しんでいた。
そうした仲にあって岩崎は小津のケを知らなかった。島津監督のようにしばしば用いていたなら気が付いたはずだから、小津のばあいは厚田カメラマン限定のものだったのかもしれない。岩崎にとってケは島津監督独得の用語だった。松竹社内で用いられていたのかもしれないけれど、岩崎は松竹のスタッフとも親しかったからその可能性は低い。ケは島津が使っていたのを小津が借用したか、あるいはその逆のいずれかだったのだろう。