一九四四年六月六日のノルマンディー上陸作戦に参加し、いま九十歳になる退役軍人バーニー(マイケル・ケイン)は上陸作戦七十年記念式典に参加しようと心待ちにしていましたがツアーへの申し込みが遅れてしまいました。
ともにイギリスの老人ホームで最晩年を過ごす妻のレネ(グレンダ・ジャクソン)には、参加は断念するといってみたものの、妻はその真情を理解していて、案の定バーニーは老人ホームを抜け出しドーバー海峡を渡ります。レネはバーナードの帰りを待つことになります。長年の夫婦生活のなかで、はなればなれになるのは戦時中そして今回が二度目のことです。
いっぽう老人ホームはバーニーの単独行に戸惑い、警察はバーニーの行方不明をSNSに投稿します。その投稿が話題を呼び、彼は「大脱走者」(The Great Escaper は本作の原題)として大きく報じられます。
知らぬは記念式典をまえにした元軍人たちで、バーニーもたまたま知り合った元パブリックスクールの校長(ジョン・スタンディング)と往時を語り合います。そのなかではなればなれとなった若き夫婦の戦時体験が、そして老夫婦となったこれまでの哀歓の歳月が、二人の戦時の記憶と、戦い亡くなった人たちへの断ちがたい思いが、丹念に描かれます。それは、アフガニスタンでの戦争を経たいまの現実と無縁ではありません。
いよいよ記念式典。ところがここでバーニーを待ち受けていた思いもよらない「戦後」が姿を現します。それは予定していた記念式典への出席をキャンセルさせた「戦後」でした。
名優たちの演技とあいまってのオリバー・パーカー監督のシブい作劇術です。
本国イギリスでは昨二0二三年十月に公開されたこの映画はマイケル・ケインの引退作品であり、また公開前の六月に他界したグレンダ・ジャクソンの遺作となりました。
こうしたもろもろを含めていまわたしは素晴らしいプレゼントをいただいた気持になっています。
「大脱走者」バーニーは所在が判明してからは「時の人」となり、いよいよレネのもとへ向かいます。このとき流れたのがナンシー・ウィルソンのヴォーカル《You'd Be So Nice to Come Home To 》でした。コール・ポーター作詞作曲のこの曲がリリースされたのは一九四二年ですから戦時歌謡ならぬ戦時ジャズで、ひょっとするとバーニーとレネの思い出の曲なのかもしれません。
《You'd Be So Nice to Come Home To 》は長らく「帰ってくれたらうれしいわ」とか「帰ってくれれば嬉しいわ」の邦題で知られていました。それがいつしか文末に前置詞toがあるのでその訳はおかしいとの議論が起こりました。
一九七0年代に刊行された和田誠『いつか聴いた歌』では「帰ってくれれば嬉しいわ」とあったのが一九九六年に文春文庫に入った際には「帰った時のあなたは素敵」に改められていました。
わたしはこの文末の前置詞toを英文法的に理解できなくてずいぶんもどかしい気になったものでした。いまはわかっているつもりですが、それはともかく、曲が流れたときは嬉しかった。わたし(バーニー)が帰ったとき、あなた(レネ)の素晴らしさを思う、「帰った時のあなたは素敵」なのだと、わずかばかりの英文法の勉強の成果が役に立ってくれました。