「流浪の月」

小児性愛者にして誘拐犯とされた十九歳の大学生、そして事件の被害者とされた小学五年生の女児。「〜とされた」というのはあくまで世間の視線、また法律の世界における扱いであって、この事件の当事者には人知れない事情がありました。

帰宅したくない家内更紗(さらさ、広瀬すず)と、彼女を自分の部屋に招き、留め置いた佐伯文(ふみ、松坂桃李)。いっしょの暮らしが二か月経ったところで文は逮捕され、更紗は保護されました。

それから十五年。外食チエーン店でアルバイトをしている更紗は会社員の中瀬亮(横浜流星)と結婚を前提に同棲しています。いっぽう、文はひとりで小さな喫茶店を経営していて、谷あゆみ(多部未華子)という恋仲の女性がいます。ある晩、職場の飲み会のあと、更紗と同僚の安西佳菜子(趣里)がたまたま入ったお店が文の小さな喫茶店でした。

亮は更紗の事件を知っていて、彼女の変化に気づいた彼はまもなくその原因を探り出しました。ネット上では過去の出来事と二人の現在が話題となり、マスコミも醜聞として報じたために、文の過去はあゆみの知るところとなります。こうして「誘拐事件の犯人と被害者」の再会は更紗と亮、文とあゆみの関係に激震をもたらしました。

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スクリーンでは現在と十五年前とが往き来し、ときに交叉します。ただし逮捕され、保護されてから偶然の出会いまで何があったのかはあまり語られません。おそらく李相日監督はそのことで観る人の想像力を刺激したかったのではないでしょうか。

素晴らしい語り口とそれにふさわしい美しい映像。主役、準主役の役者陣からは新たな領域に向かう意欲と熱意を感じました。また十歳の更紗を演じた白鳥玉季の演技は特筆しておかなければならないでしょう。二時間三十分の長尺ながらわたしは一瞬の心のゆるみも覚えませんでした。

十五年が経過し生活も環境もずいぶん変わったけれど更紗と文の内面はさほど変わったようには見えません。ネットもマスコミも人びとの興味関心を煽り、喫茶店の入り口には「ロリコン」の殴り書きがある、そんな激しい事件なのに、更紗と文の心に通奏低音として流れているのは激しさとは無縁の静かで穏やかで、できればともに生き合いたいという思いです。「できれば」というのには文の人生を台無しにしてしまったという更紗の罪の意識と、更紗がしあわせになるには自分と居てはならないという文の願いとが深く関わっています。

事件はいまに呼び起こされ、現在の二人の姿がSNSに、週刊誌にスキャンダル満載であぶり出されます。更紗と文に社会の視線をはね返す力はなく、隠れもできません。

観ているうちにわたしは文に、丸谷才一『笹まくら』で描かれた戦時中の徴兵忌避者という補助線を引いてみました。彼は終戦というゴールに向かって逃亡を図りました。ゴールの先には戦後社会という逃げ場が待っていたのです。ただしこの小説で忌避者というレッテルは戦後もついてまわりますから完全なるゴールではなかったのは言っておかなければなりません。

対して「ロリコンの誘拐犯」というレッテルを貼られた男にはゴールも来るべき社会という逃げ場もありません。逃げることさえままならない。逃げるというのは冒険という要素を含んでいます。逃げるためにはときに追手と対峙して戦わないといけないからです。しかし文には冒険や戦いという契機や動因はありません。

そうしたなか更紗が文にそっとつぶやきます、どこかへ流れてゆけばいい、と。逃亡とは異質な、現代社会で流れてゆくという心模様を思ったところで、微風に揺れる文の部屋のカーテンや月影、立ちつくすふたりのシルエットなどの映像にもこの成分がなにほどかあった気がしました。

(五月十七日 TOHOシネマズ上野)