新型パソコン学習記

とくに用事のない日の午後は喫茶店で座っていたのに昨年の緊急事態宣言を機に自室で音楽を聴きながら、自分で淹れた珈琲を飲むようになった。きょう聴いたジュディ・ガーランド「Afternoon Tunes」は「ダニーボーイ」や「君去りし後」などのスタンダードナンバーを収めたアルバムで、うたとアルバム名とがあいまって午後の珈琲に花を添えてくれた。

朝は永井荷風のように「朝餉は仏蘭西製のシヨコラ一碗にアメリカ製のクラツカー三四枚とす」(「歌舞伎座の稽古」)といきたいところだがまだ真似できていない。

麻布の偏奇館で荷風はショコラ、クラッカーの朝食のあと書斎の塵を掃き、庭に出て落葉を掃い、季節の草花に親しんだ。

「垣のほとりの梔子、花まさに盛りなれど、風あまりに烈しきが故にや近く寄りて佇立むもかをり更になし。野薔薇の花は大方凋れて、姫百合擬宝珠の蕾早くもふくらみ、金糸梅の黄いろき花もまた咲きそめ」云々。

落葉については「葷斎漫筆」に「日々掃へど掃ひつくせぬ落葉を掃ふ中いつしか日は過ぎて秋は行き冬は来る。われは掃葉の情味を愛して止まず」とあり、『濹東綺譚』には館柳湾の絶句「秋尽」にある「老愁如葉掃不尽 蔌蔌聲中又送秋」が引用されている。

荷風にとって柳湾は「江戸詩人の中わたくしが最も愛誦する」存在だった。(『下家叢話』)いずれしっかり読まなくてはならない。

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「名誉と自由のためにしつけるべき幼い精神を、教育するにあたって、わたしはすべての暴力を非難します。厳格さと強制のうちには、なにかしら隷属的なものが存在するのです。それに、理性と、英知とたくみな技量によって、なしえないことが、力ずくでできるはずがないと思うのです」

モンテーニュは十六世紀フランスルネサンス期の人だが語られた中身は過去のものではない。わたしが通った中学校は「力ずく」の傾向が強く、 強制と叱りを教育と心得ている教師が多かった。さいわい高校は違っていて救われたけれど、ここもおなじような場所だったらどんなことになっていただろう。

モンテーニュはまた厳格さと強制のシンボルは鞭であり、それは「人間の心をいじけたものにするか、さもなければ、もっと強情でひねくれたものにする以外には、いかなる効果を認めることはできません」と述べている。

この思想家が亡くなったのは一五九二年九月十三日。以来四百数十年のあいだかれの叡智はどれだけ継承されたのだろう。

「もっとも美しい魂とは、もっとも多くの多様さと柔軟さを持った魂なのである」

「仕方なくたった一つの生き方にしがみついて、それに縛られているのは存在しているだけで、生きていることではない」。

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珈琲は喫茶店で飲むもの、喫茶店は本を読んだり、原稿を書くところとしてきたが、いまは自宅で珈琲を淹れ、本を読み、パソコンの前に座る。自分の部屋ではそんなことできないと思っていたのがなんだか不思議で、やればできるなんて肩肘張ったものでもなく、緊急事態宣言の影響による半世紀ぶりの生活様式の変化である。

先日のジュディ・ガーランド「Afternoon Tunes」に続いてきょうはエラ・フィッツジェラルドルイ・アームストロングのデュエット「Autumn In New York」を聴いた。スタンダードナンバーばかり全十四曲を収録しておよそ四十分余り、CDの時代になり多くの曲が収められるようになったが、これくらいがほどよい。

レコード盤の人気が復活していると聞く。ジャズだと三十センチLPで聴く四十分ほどの時間がちょうどよい。別のテイクをたくさん並べられてもプレイヤーや研究者ならともかく、わたしのようなふつうのファンはほとんどのばあいそこまでは入り込めない。それにレコードのジャケットは部屋を飾ってくれるのがうれしい。

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荷風全集』のうち大正期の著作を主に読んでいる。そこにしるされた社会史の一端をメモしてみた。

▼「此の頃支那蕎麦売の夜更けていやな笛を吹きて来るは亡国の夜の秋の心持なり」(「毎月見聞録」大正六年九月四日)。とすれば中華そば屋のチャルメラは大正になって吹かれるようになったわけだ。いまの若い人はインスタントラーメンのチャルメラは知っていても、その音を聞いたことのある人は少ないだろう。ネットでみると、明治には水飴商人がよく吹いていて、中華そば屋が用いだしたのは大正期からとあった。

▼「忘八渡世の者共白昼上野精養軒に集り全国芸者屋組合総会とやらを開きて万歳を三呼せし由新聞紙に見ゆ万歳の濫用ここに至つて極れりと云ふべきなり」(「毎月見聞録」大正七年四月九日)。ここから窺うに、万歳三唱は女郎屋の主人などがたやすくできることではなかった。なお忘八とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌  の八つの徳目のすべてを失った者の意から、廓通い、また、通う者、転じて、遊女屋およびその主人をいう。忘八たちの万歳三唱は大正デモクラシーの余波だったのかもしれない。

関連して提灯行列は「明治の新時代が西洋から模倣して新に作り出した現象の一」。氏神の祭礼、仏寺の開帳とは外形精神を異にして「氏神の祭礼には町内の若者がたらふく酒に酔ひ小僧や奉公人が赤飯にありつく。新しい形式の祭には屢政治的思惑が潜んでいる」と荷風は述べている。

▼「打こわし騒動の事を新聞紙に書立てる事御差止めに相成る。新聞といふものはもともと事を針小棒大に書くものなり故に新聞に出た事といへば嘘にきまつてゐるものと吾等は思ひ馴れ居たるに近頃は愚人多くなりしにや新聞を真実と心得違ひする」(「毎月見聞録」大正七年八月十四日)。ニュース報道における米騒動の社会史。

▼「近年に至つて都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで『とうさん』となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を『かアさん』といふのを耳にする。良家に在つては児輩が厳父を呼んで『のんきなとうさん』と言つてゐる。人倫の退廃も亦極まれりと謂ふべきである」。(「申訳」昭和二年)

荷風一流のユーモアと皮肉を擬古文調で効かしている。ちなみに『ノンキナトウサン』、改題『のんきな父さん』は、一九二二年(大正十二年)に発表された麻生豊による漫画、「ノントウ」の略称でも親しまれ映画にもなった。『ノンキナトウサン』は聞いたおぼえはあるが作者の麻生豊は知らなかった。

荷風はしかつめらしい表情で皮肉、冗談をいう、その文体には擬古文や漢文が似合いで、この手法のパイオニアは『江戸繁盛記』の寺門静軒だった。その後継として荷風は服部撫松、松本萬年、三木愛花の名前をしるしている。

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葉真中顕『絶叫』(光文社文庫)を読んでいて、ようやく半分まで来た。バブルがはじけてからの日本社会で、ある女性の堕ちていく過程が描かれる。彼女の不幸を通してこの国の貧困の現実を捉えようとしていて、宮部みゆき火車』を思い出した。社会派推理小説にして貧困の社会学の教科書のような趣きもある。

『絶叫』の軸は、いままで読んだところでいえば、身元不詳の団塊ジュニア世代の女性の人生の軌跡が明らかにされるところにある。離婚後、保険会社の外交員をしているうちにノルマの達成や業績を伸ばすために枕営業をはじめ、やがてそれがばれるとデルヘルに走る。いまの日本の貧困のひとつの典型かもしれない。当方風俗営業の実態など知るわけはないが作者の取材はたいしたもので、フーゾクとはご縁のない老の身ながら取材の成果が作品に活かされているのはよくわかる。ミステリーだからこのあと犯罪絡みになっていくのだろうが、さてどんな?(と書いて、読み終えましたが複数の殺人の経過、謎解きとともに記述上のトリックもあり、上質のミステリーでした。)

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一部に感染症対策には民主主義よりも強権政治、独裁政治が有効といった議論が喧伝されている世界で、民主主義国家においても被統治者の合意を得る必要などうるさく、まぎらわしいといった雰囲気が醸成されているようだ。そうした視点から菅内閣とオリンピックパラリンピックの問題を眺めている。そして新型コロナウイルス禍を機に国際機構が権力体としての貌を剥き出しにして直截各国民に指示命令をしようとする意向を、東京オリパラ騒動とIOCに感じる。

「たとえ東京で新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が発令されていても東京オリンピックは実施する」というIOC幹部の発言はその表れだ。

望みはしないけれど中国やロシアなど全体主義志向の国々が国際機関を主導する場合だって想定しておかなければならない。どこかの国の首脳が口癖のようにいう仮定の話にはお答えできないなんて悠長な話ではない。中国に牛耳られていると聞くWHOは自由主義国家群による別組織を視野に入れておく必要がありはしないかとさえ思う。

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Apple社の新型タブレットを購入した。わたしのパソコンでの作業は同社のiPad(第七世代)で十分カバーできていて、 iPad Pro が新発売されたのを機にiPadからProに格上げし、パソコンを不要とするつもりだった。

ところが有楽町のビックカメラAppleの新型デスクトップをみて、そのスタイリッシュな魅力に一目惚れしてしまい、そのときは衝動買いはいけないと自制したのだったが、惚れた弱みから数日後にこちらも購入した。下流年金生活者としてはたいへんな散財で、お小遣いのほうも緊急事態宣言となった。

自分のカネだから文句をいわれる筋合はないのだが案の定デスクトップは不要不急とのご意見である。永井荷風の愛読者としてケチは紳士のたしなみと心得てきたのに調子が狂った。歳をとってからの惚れた腫れたは収まりがつきにくいと聞くけれど情報機器にも似たような事情があるのかもしれない。それとも認知症のはじまりか。

「金というものの唯一の欠点は、使うとなくなってしまうということである。これは実際、困ったものであって、使うとなくなるからというので使わずにいれば、なんのために金を持っているのかわからない。」吉田健一「金銭について」より。そうなんだよなぁ。

吉田健一について娘の吉田暁子さんは、ものを書きたくて、書き始め、結婚して家庭を持ち、ものを書いて生計を立て、犬を飼い、面白い本、良い文章を読み、美味と酒にしたしみ、良い友人とつき合い、旅を愛したのが父の一生だったと述べている。

及ばずながらわたしもせめて「俺も生きたや人間らしく梅の花咲く春じゃもの」(「侍ニッポン」)で、まあ、なりゆきでICT(情報通信技術)を少しばかり充実したくらいいいじゃないかと納得したのだった。

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デスクトップのパソコンが配送されてきて、さっそくWi-Fiを通そうとルーターの機種番号とパスワードを打ち込もうとしたが、そこへたどり着けない。iPad Proのときはすぐにできたのに。初歩からけつまずいてすぐさまAppleのサポートセンターに電話したところ、まずはキィボードとマウスのスイッチを入れましょうというところから始まり、親切な助力を得てようやくセッティングが完了し、文書を作れるようになった。

次には写真を入れてみようとしたところ上手くいかず、またまたサポートセンターへ電話して教えていただいた。もともと 情報リテラシーの劣る高齢者が新たなOSに向き合うのは冒険であり、なかなかのホネである。

こうして右往左往しながらこの日の晩酌では24インチの画面でYouTubeをみた。まずはわが生涯のベストナンバー「鈴懸の径」を鈴木章治とリズムエース+ピーナツ・ハッコーの演奏で聴いたところボリュームを最大にしてもなお音が小さく、これは設定だろうと目星をつけて音量の設定を変更して問題解決!

鈴木章治とリズムエース+ピーナツ・ハッコーによる「鈴懸の径」をはじめてラジオで聴いたのは小学生の高学年だったと記憶している。演奏者の名前も知らなかったが、何よりも軽快なメロディと二本のクラリネットの音の絡みが素敵だった。結婚してステレオを持ったときは「鈴懸の径」を収めた鈴木章治のLPレコードを買いに走った。

四十年ほど昔、北村英治オールスターズ(テナーサックス尾田悟、ピアノ秋光義孝などなど)のコンサートで北村さんがリクエストを求めたとき、「鈴懸の径」を所望された方がいて、北村さんは「ごめんなさい、この曲はわたし一人で演奏してはいけないことになっていまして」とやんわりと断っておられた。鈴木章治への仁義なのだろう。

北村英治が一人で演奏してはいけないという「鈴懸の径」だが、YouTubeには鈴木章治北村英治が共演したヴァージョンがあり、ピアノ世良譲、ヴァイブ増田一郎などが参加している。もとのディスクはライヴ録音で、コメント欄には、六本木にあったバードランドでこのときの演奏を聴いたとうらやましい書き込みがあった。

前にも書いたが、小学生のとき、高知市へ阪急ブレーブスオリックス・バファローズの前身)がキャンプに来ていて、市役所の職員で野球人だったわたしのおじが球団の世話をしていた。野球が大好きだった灰田勝彦がキャンプ巡りをしていて、おじが案内し、たまたまわたしはそのそばにいた。

灰田勝彦が「鈴懸の径」をさいしょにレコーディングして、ヒットさせた歌手だとはそのときは知らなかったが、振り返るとありがたい出会いだった。球場にいた本屋敷、梶本、米田、バルボンなどブレーブスの選手たちをふくめこのうえなくなつかしい。

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五月の10キロヴァーチャルマラソンは56:16、283/846で、七十代になっていちばんよい成績だったが、今月六月の成績は57:25、321/774。走れるだけでありがたいとわかっていてもやはり気落ちしてしまう。これまで最大のショックは五十代での12キロ走で、はじめて60分を切れなかったときは寝込むほどの衝撃だったが、いまは1キロ6分という現実が背後に迫ってきている。

年齢を重ねるうちにタイムは悪くなる。それよりも先にけがや故障で走れなくなるかもしれない。それらの事情からすると完走できるだけで感謝しなければならず、タイムについては贅沢な悩みと悟ればよいのは頭ではわかっていても人間ができていないからどうしてもタイムにこだわってしまう。

少しでも長く走るにはけが、故障の防止が第一で、わたしも多くの人と同様これまで膝痛を経験していて、まずはこれである。トレーニングの勉強はしているけれど、膝痛防止だけのトレーニングに打ち込むのは難しい。適度にオフの日を設けなければならないのはわかっていても若いときから休む勇気がない。

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