「鈴懸の径」

「鈴懸の径」は昭和十七年(一九四二年)灰田勝彦の歌でヒットした。作曲は兄の灰田有紀彦、作詞は佐伯孝夫。レコードはこの年の九月に出ている。
灰田は昭和十一年立教大学の卒業で、いまキャンパスには〈友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎の街/やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径〉と歌詞を刻した石碑が建ち、建立のいきさつを述べた銘文には「時あたかも太平洋戦争の最中であって、学舎に集う若人の夢と希望が、この歌に托され、ひろく愛唱された」とある。
洗練され、哀歓に富むメロディと歌詞は戦時という時局を思うと奇蹟的な感さえする。
石碑の除幕式は昭和五十七年十一月三日に催されたが、残念なことに式への出席を心待ちにしていた灰田は直前の十月二十六日に病状が急変し、七十一歳で歿した。式ではおなじ立教の先輩で親交のあったディック・ミネが号泣しながらこの歌をうたい、その死を悼んだ。

戦時中のヒット曲を戦後さらに有名にしたのが鈴木章治とリズム・エースにピーナッツ・ハッコーが加わったクラリネット二重奏のジャズ・ヴァージョンだった。
昭和三十二年(一九五七年)ベニー・グッドマン・オーケストラの一員として来日したピーナッツ・ハッコーがたまたまライブで鈴木章治の演奏するこの曲に接したことからクラリネット二重奏にアレンジされ、大ヒットした。このとき鈴木は二十代半ば、ハッコーは三十代ぎりぎりの年齢だった。
以上がジャズ・ヴァージョン誕生について知るところだったが、今回Wikipediaを見ると「三拍子の本作を鈴木章治が四拍子としジャズ・アレンジを加えて一九五四年頃に鈴木章治が率いるジャズバンド、リズム・エースの演奏で吹き込んでヒットし、更に一九五七年一月には、ベニー・グッドマン楽団の首席アルト・サックス奏者ピーナッツ・ハッコーがクラリネット奏者として鈴木章治とリズム・エースに参加し、TBSホール(当時)で録音・放送したことでリクエストが殺到し、そのTBSホールでの録音テイク盤が繰り返しレコード化された(Victor CP-1022等)。また、ピーナッツ・ハッコーも『プラタナス・ロードPlatanus Road』として米欧巡演で演奏、吹き込みを行って日本にも輸入されて、さらに有名になった」とあった。
ハッコーの「Platanus Road」は知っていたが、二重奏ヴァージョンのまえに鈴木が単独でレコード化していたのは知らなかった。

鈴木章治は一九九五年に亡くなったから、早いもので二十年以上が経つ。ピーナッツ・ハッコーも二00三年に亡くなった。鈴木はともかく、迂闊なことにハッコーの映像をこれまで見ておらず、ようやく先日YouTubeで眼にしたところ、端正な紳士、渋くて地味な職人風プレイヤー、スーツ姿は会社の経営者のようでもあった。そして、あの歴史的名盤はこの人の琴線に触れて生まれたと思うと胸が熱くなった。
はじめこの曲に魅せられたのはジャズ・ヴァージョンのほうだったが、いつだったかは記憶にない。ラジオを通じて知ったのだろうが、昭和三十二年といえばまだ小学校の低学年だから、それよりはだいぶあと、ただし中学生のときには知っていたような気がする。
のちに阪神と西武が高知県でキャンプを張ったが、昭和三十年代、わたしが小学生のころは高知でのプロ野球のキャンプといえば阪急ブレーブスオリックス・バファローズの前身)で、自宅が近かったからよく高知市営球場に見に行った。ピッチャーでは梶本兄弟、米田、野手では本屋敷、バルボンらの姿をよく見かけたものだった。そして灰田勝彦と会ったのもこのキャンプだった。
自身も野球人だった叔父(父の弟)は高知市役所で阪急のキャンプの世話役をしていて、ある日、球場に叔父がいたので寄って行くと灰田勝彦と二人で話をしていたのだった。野球大好きな灰田は旅行を兼ねて各地のキャンプ地巡りをしているとあとから叔父に聞いた。
「鈴懸の径」を愛聴するようになって、灰田勝彦という歌手に会ったあの日(日付はもとより、小学校の何年生のときだったかもわからないけれど)が貴重で大切な一日となったのは言うまでもない。
(下は昨年秋ブリュッセルの郊外で撮影)