指ヶ谷町で

荷風全集』を読みながら荷風ゆかりの地や小説の舞台となったところを散歩している。この試みは今回が二度目で、さいしょは一九九七年から九八年にかけてだった。それまでわたしはほとんどカメラに縁がなく、使い捨てカメラを買っては目的地へと向かっていた。

先日はむかしの指ヶ谷(さしがや)町、いまの白山一丁目界隈を廻った。町の一角がかつての花街で、わたしの好みの小説『おかめ笹』(一九一八年、大正七年)の舞台のひとつとなっている。ドタバタ喜劇の趣を具えた作品で、作者は「滑稽小説」としている。荷風の小説は偶然の出会いに頼りすぎるところなしとしないけれど、滑稽小説、ドタバタ喜劇であれば偶然にリアリティがあろうがなかろうがおかまいなしである。

そのはじめのところで、高名な日本画家内山巣石のグータラ息子翰と、内山の弟子で画家として一人立ちできず内山家で執事役を務める鵜崎巨石が、翰のなじみの芸者君勇と待合の美登利で酒杯を傾ける場面がある。

「小石川指ヶ谷町の停留所で電車を降りる。紙屑問屋なぞが目につく何となくごみごみした通りである。右へ曲つて突当りのはづれは本郷西片町辺の崖地をひかへた裏通り、板葺屋根のぼろぼろに腐つた平家立ての長屋のみ立ちつづいた間々に、ちらばらと新しい安普請の二階家。松なんぞ申訳らしく植込んだ家もあつて、白山の色町は其処此処に松月、のんき、おかめ、遊楽、祝ひ、いさみなんぞと云ふ灯をかがやかし、金切声振絞る活惚に折から景気を添へてゐる家もあつた」というのがその描写で、柳橋や新橋のような伝統、格式、堅苦しさのない、庶民的で親しみやすい町だった。

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古ぼけた写真は二十世紀末に訪れたときのもので、かろうじて看板を出している店があり、色町の名残りや芸者家や待合のたたずまいを感じさせてくれたけれど二十余年が経つと店は消え、敷石道にかつての姿を想像するほかない。

古い写真から二十年ほど前だと、野口冨士男が『私のなかの東京』(一九七八年)で、白山について「今なお大正時代の東京山ノ手花街の面影をとどめているただ一つの場所なので、私はここへもぜひ行ってみることをすすめたい」と書いている。

東京夢幻のひとこまとして一句 

軒灯や敷石道に春の風

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この日はおなじ町内にある円乗寺で八百屋お七のお墓に手を合わせてきました。

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見ぬ世の人を憶い、その墓に参る掃墓の興は荷風によると江戸風雅の遺習であり、「礫川徜徉記」には「雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日其墳墓をたづねて更に其為人を憶ふ。此心何事にも喩へがたし」「掃墓の興は今の世に取残されし吾等のわづかに之を知るのみに止りて、吾等が子孫の世に及びては、之を知らんとするも亦知るべからざるものとはなりぬべし」とある。

荷風ゆかりの地をめぐるわが散歩、プチ旅行もこれにあやかっていて、よい趣味を教えていただき、まずもってありがとう、といわなければならない。

先人の墓を訪ねるなどやがて廃ってしまうだろうと荷風はみていたが、今日でも有名人の墓地案内本が出ていて「町中の寺を過る折からふと思出でて、其庭に入り、古墳の苔を掃つて、見ざりし世の人を憶ふ」ところに人生の哀歓を覚える人はなお多い。

それにいまの世にある人を訪うのとは異なり、見ぬ世の人を墳墓に訪れるのは挨拶の気遣いなく、手土産も不要、思い立ったとき自由に訪れ、心のおもむくままに過ごし、帰りたいとき帰って引き止められることもなく、長年ご無沙汰しても不実などと批判を受けることもない、よいことばかりである。