「ジョーンの秘密」

夫に先立たれ、仕事からは引退し、イギリス郊外でつつましく一人暮らしをしているジョーン・スタンリーが突然訪ねてきたMI5に、半世紀以上前にソ連KGBに核開発の機密情報を漏洩したという容疑で逮捕されます。二000年五月のことで、外務事務次官のW・ミッチェル卿の死後に見つかった資料などから、彼女のスパイ活動が明らかになったというのです。

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ジョーンのモデルとなったのはメリタ・ステッドマン・ノーウッド(1912~2005)、彼女は一九三七年に非鉄金属研究会という研究機関に採用され、退職した一九七二年まで公務員として知り得た情報を KGBに渡していました。ことが露見したきっかけは一九九二年旧ソビエト連邦からイギリスに亡命した元KGBの幹部ワシリー・ミトロヒンが ソ連から持ち出した膨大な機密文書でした。

二0一三年ジェニー・ルーニーがノーウッドの人生をもとにした小説 "Red Joan" を出版し、本書を原作として製作されたのが「ジョーンの秘密」(原題:"Red Joan")です。 メリタ・ステッドマン・ノーウッドは共産主義者として長らくスパイ活動を続けた確信犯でしたが映画の ジョーン・スタンリーはコミュニストではなく、その点だけでも人物像はずいぶん異なっています。あくまで事実に触発された作品として、原作や実在の人物にとらわれず鑑賞するのがよいと思いました。

それはともかくスパイ、諜報戦を描いた映画といってもこの作品はスパイたちが繰り広げる情報争奪戦ではなく、争奪戦に関わった人たちの忠誠心をめぐる物語なのです。

忠誠の対象はひとつは国家とイデオロギーであり、一方はソ連共産主義に忠誠を誓い、他方は自由主義、反共産主義の立場をとります。主人公ジョーンはこのいずれでもなく、自身は第三の立場にあったと強調します。その内容は映画でどうぞ。

忠誠のもうひとつの対象は、恋人、家族、同僚など具体に関わりをもつ人間です。

国家、イデオロギーへの忠誠が恋人や家族への忠誠と重なるとは限りません、それどころか両者はときに相反するものとなります。一方の極に国家、イデオロギーのためなら親しい人間であっても騙し、裏切るのが当然とする考え方があり、その対極には恋人や家族を守るためには信念を棄て、国家を裏切る立場があり、この映画には両極のあいだで揺れ、活動する人たちの姿が描かれています。

情報を取るためには俗にいう色仕掛けもある世界で、ジョーンも辛酸を舐めました。しかし彼女はどのような目に遭っても二人の恋人には忠誠(愛情)を尽くしました。そこのところはジョーンを演じた二人の女優(現在のジョーン役ジュディ・デンチ、その若き日はソフィー・クックソン)が演じ切っています。 どうしてこんな男にあやつられたりするんだと苛立つこともありましたが。

問題は国家、イデオロギーへの忠誠なのです。ジョーンは上に述べた第三の立場を言葉では説明をしてくれるのですが、恋人たちへの心が見えるようには、わたしには見えなかった。メロドラマの要素が強くなったぶん彼女の政治観や政治思想の掘り下げが浅くなった気がします。

たとえば弁護士である彼女の息子は思いもよらないかつての母の活動をはじめ卑怯な裏切り行為と強く批判するのですが、最後は母の弁護を決意します、そこにどのような心境、考え方の変化があったのか、あるいはソ連という欠陥だらけの国家がその本質を露わにしていない時代のなかでとった彼女の行動は現代の人の目にどんなふうに映っているのかといったところがもっと描かれていればジョーンの忠誠はよりくっきりと見えたでしょう。その点で少し残念な気がしました。

若き日のジョーンのファッションや職場の光景が大戦中の風俗をよくとらえています。

(八月十八日TOHOシネマズシャンテ)