根津権現のベンチ


木下順二『本郷』(講談社文芸文庫)を再読した。一九八三年に講談社から刊行された初版の単行本から数えて三十年余りが経つ。書名の『本郷』は昔の本郷区小石川区の全域を指していて、現在の地理上では文京区にほかならないが、作者は安っぽいネーミングだとおかんむりだ。
はじめて本書を読んだときわたしは本郷の住人ではなかったが、いまはここに住んでいて、あらためて読み直してかつての姿や現在も残る光景が作者の思いとともにひとしお身近に感じられた。
永井荷風が「私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思つてゐる」(『日和下駄』)と書いた藪下通りは木下順二にもお気に入りの散歩道だった。団子坂上にある森鴎外の観潮楼から下って藪下通りの行き着く根津権現裏門をはいる。そこは「仕事がひとっ切りついた夕方など、権現さまのふところ深い境内の石のベンチに何を考えるともなく坐っていると。これがこの世の至福というものであるかという気のすることがある」ところだった。