菊人形

十月になり、自宅近くの団子坂を上り下りしていると、菊人形のことが思い浮かぶ。
文化文政年間に巣鴨、染井、白山の植木職人が手慰みに菊を衣に人形に着せた菊細工が起こりで、これが安政年間に駒込団子坂に移り、明治七八年ころから木戸銭を取って客に見せる催しに発展した。
十月はじめからなかばにかけてはじまり、天長節のころ盛りを迎え、十一月末の菊の花の衰えとともに閉園した。各地の菊人形の人気が衰えたあとも団子坂は健在で、明治十五年からあとは独擅場となったが、明治の終わりに名古屋の業者が東京に進出し、両国国技館を会場に開催した菊人形にお株を奪われ、廃れてしまった。
明治の風物詩としての団子坂の菊人形は文学作品とかかわりが深く、二葉亭四迷浮雲』、夏目漱石三四郎』、森鷗外『青年』のいずれにもしるされている。
「さてまた団子坂の景況は、例の招牌(かんばん)から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟を翩翻と金風(あきかぜ)に飄(ひるがへ)し、木戸々々で客を呼ぶ声は彼此からみ合て乱合て、入我我入(にふががにふ)でメッチャラコ」。
これは二葉亭が描いた菊人形で、明治二十年代の最盛期をとらえている。
他方、『三四郎』にあるのは日露戦争直後の、『青年』にあるのは最末期の菊人形で、ここでは団子坂上の観潮楼に住んでいた鷗外の作品を見ておこう。(写真は団子坂上、観潮楼跡の石碑)

「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のやうに、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのやうな男が、どの小屋の前にもゐて、手に手に絵番附のやうなものを持つてゐるのを、往来の人に押し附けるやうにして、うるさく見物を勧める。まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が通り掛かつたのだから、道の両側から純一一人を的(あて)にして勧めるのである」。
おそらく著者自身の体験にもとづいた記述であろう。「メッチャラコ」のときとくらべてずいぶんさびしい感じがするけれど、いまなお菊人形といえば団子坂で、かつての東京名物のひとつを確立した土地の記憶はそれほどに強い。