綺堂と花々(関東大震災の文学誌 其ノ七)

岡本綺堂が古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて買い、そのあと麻布十番の夜店でもとめた梅の枝と寒菊の花を挿したいきさつは「十番雑記」の一篇「箙の梅」にしるされている。
このときの住まいは麻布区宮村町だったが、この家も震災の影響で雨露をしのぐさえままならず翌一九二四年(大正十三年)三月には大久保百人町に移った。
〈いわゆる東移西転、どこにどう落付くか判らない不安をいだきながら、兎も角もここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅の咲きほこる五月となった。〉(「風呂を買うまで」)
躑躅にくわえて五月の四日、五日は菖蒲湯で、毎日通う都湯の風呂一杯に青い葉が浮かぶのが綺堂には快かった。青々と湿れた菖蒲の幾束が子桶に挿してあったのもなんとなく田舎めいた面白さがあった。
菖蒲湯とは五月五日の端午の節句の日に、菖蒲の根や葉を入れて沸かす風呂のことをいう。江戸時代、武家社会で菖蒲と尚武をかけて尚武の節日として祝うようになったのが端午の節句の始まりだといわれ、五月五日には菖蒲湯に入る習慣が受け継がれていた。
菊の花を贈られてもそのまま庭土に挿しておいた前年の天長節のころに比較すると花々にそそぐ綺堂に心のゆとりが感じられる。
王朝和歌の世界では花は人の心のうつろいにたとえられ、ときに恋のやるせなさ、うらみを託されもするが、花のほうは迷惑な表情を浮かべることなくやさしく人間を包んでくれている。そんなふうに考えると花は雑草のたくましさとはちがう強さを持っている。
大久保に転居した綺堂を躑躅がやさしくつつんで「ここら一円を俄に明るくした」し、菖蒲湯も慰めとなった。罹災している人間にそんなふうに思わせる花がうれしく、いとおしい。

(写真は根津神社のつつじ)
もともと大久保は躑躅の名所だった。江戸時代百人組の武士がなぐさみに栽培したのがはじまりで、それを引き継いだ有志が明治十六年に大久保躑躅園を開園した。のちに躑躅園の花々は日比谷公園に移植されたが、それでも大久保に躑躅は多く咲いていた。
一九0五年(明治三十八年)に信州小諸から西大久保に転居した島崎藤村は、当時の情景を短篇「芽生」に「郊外には、旧い大久保のまだ沢山残つて居る頃であつた。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息を吐きに行つた。大久保全村が私には花園のやうな思をさせた」と書いている。
日比谷に移植されてもなお綺堂の借家の庭には紅白やむらさきの躑躅が咲いた。
〈わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗きあるいた。〉(「郊外生活の一年」)
躑躅を見てあるく姿を通して震災から精神的に立ち直ろうとする綺堂の心の裡が見えてくるような文章である。
震災のあと、綺堂のさいしょの連載小説『三浦老人昔話』の三浦老人も大久保に住んでいる。維新のまえは下谷の家主だったが、明治のいまは大久保に転居している。なかの一篇「おいてけ掘」の冒頭で「わたし」に三浦老人が「躑躅が咲いたらまたおいでなさい」と声をかける場面がある。
それを承けて「わたし」が四月の末に大久保の停車場に降りると、その眼に満開にはまだ早い躑躅見物の人たちの賑わいが映る。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかかげた休み茶屋が軒をならべ、赤い襷の女中たちがしきりに客を呼んでいる。
震災後の大久保にかつての賑わいはなくても、綺堂は躑躅を通して人びとが花を愛でてよろこぶ光景を見ていた。それは震災からのち花と綺堂との縁がもたらした光景だった。
嗣子岡本経一によると綺堂が園芸を趣味としたのは大久保で生活して以降で、晩年の上目黒の家は庭が広かったので花壇をつくりむやみと花を植えていたという。