美しき五月

「あひさしの傘(からかさ)ゆかし花の雨」。
元禄時代のマイナーな俳人の句を採り上げた柴田宵曲『古句を観る』にある印象深い句で、作者は淀水、「花の雨」という季語はこれで知った。
相合傘、男と女、花の季節の雨は絵画にしてみたい素材だが、俳句としては艶に過ぎるかもしれない。
加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』には「花どきの雨は冷え冷えとして、はなやかなうちにどこか一抹のわびしさが漂う」とある。この句の男女もルンルンでお花見に行って雨に降られたカップルのたたずまいではなく、「ゆかし」(心が惹かれて事情を知りたい)の一語は複雑な事情がありそうな様子を思わせる。相合傘のなかは不義密通の匂い、いや、そこまで行くとわたしのさもしい心の表れととられそうだ。
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ついこのあいだまで「花の雨」の季節だったのに、もう近くの根津神社つつじ祭りで賑わっている。ゴールデンウイークが近づくにつれて谷根千(谷中、根津、千駄木)はなかなかの観光地となる。

けさはひどい雨だったが、まもなく晴れて、こういう日はのんびり、ゆっくりするのがよいとわかっていても走りを休む勇気が湧かず、昼前に上野をジョギングすると早くもたいへんな人出だった。こちらでは桜の季節が終わると牡丹祭りが催される。
「豁然と牡丹伐りたる遊女哉」。子規の句は上野の光景を詠んだものか。
若月紫蘭『東京年中行事』は麻布、月島、日比谷など数ある牡丹の名所のなかで冠たるところとして本所四ッ目の牡丹園を挙げている。入園料は十銭、勧進帳や弁天小僧など牡丹づくりの人形が飾られていた。同書は明治四十四年の刊行。このころすでに漱石が『三四郎』で、鴎外が『青年』で描いた団子坂の菊人形はなくなっていたが、牡丹づくりの人形は健在だった。
映画に影響されていま読んでいるイレーヌ・ネミロフスキー『フランス組曲』(野崎歓、平岡敦訳)にはサクランボの花の様子が「五月のこの日、枝を揺らすそよ風はまだ冷たかった。花びらは寒さから身を守ろうと優雅に縮こまり、金色の雌しべを太陽に向けていた。花のあいだに日がさし、白い花弁に繊細な筋目模様の影が映ると、幻のようにはかなげな花がどこか生き生きとした」と描かれている。
ハイネが詠った「美しき五月」である。
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今月はスカパーのボーナス月でふだんは契約していないスターチャンネルとAXNミステリーチャンネルを見せてもらっている。さっそく前者で「ワイルド・スピード」シリーズのこれまでの七作品が一挙放送された。有名なカーアクション映画とは知っていても、車による衝動と破壊は趣味ではないとパスしていたが、こうなると避けて通るわけにはゆかない。
もうひとつのAXNミステリーははじめての視聴で、ミステリーファンを自認しながら、不覚にもこれまで知らずにいた。
NHKBSで先日終了した「刑事フォイル」は捜査、犯人探しにくわえ第二次大戦中のイギリスの社会相が興味深く、お気に入りの番組だった。全編を放送してくれたものと思っていたところ、ミステリーチャンネルではその後のフォイルが放送されていて、NHKはおよそ半分で打ち切っていたのだった。

NHK の措置にたいしては、ネット上に「イギリスでは長い間放送されてきたようですね。 なぜ、終わらせるのですか。 日曜の九時、また、韓国ドラマですね。もういいかげんにして」「好きな作品だったので、あと二話で終了と知ってとても残念です。しかもシーズン8まであるうち、シーズン4の途中で、です。続きが放送されることを願っています」「フォイルを最後まで放送しないで、また朝鮮ドラマをやるのか。 高い受信料あつめて二束三文のドラマをまたはじめるのか」といった(NHK放送の韓国ドラマはどれも観ていないので評価は控えるが)フォイルのファンとしてうれしくなる意見が多数寄せられている。
ミステリーチャンネルでの第二次大戦が終結したシリーズ後半の後半(番組コマーシャルは冷戦篇と名付けていた)で警察を退職したフォイルは一時アメリカへ渡り、帰国するとある出来事からMI5に協力を求められ、ここで仕事をするようになり刑事ではなく諜報員フォイルとなる。それにしてもイギリス人はスパイストーリーがお好きだ。
同チャンネルではほかにも主任警部モースやシチリアを舞台としたモンタルバーノ刑事のシリーズがありミステリーファンには堪えられない。これではサービス月間が終わったので、はい、さようならとはまいらない。
スパイストーリーといえば村上博基氏の訃報に接した。命日は四月三十日、享年八十歳。ジョン・ル・カレ『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』などジョージ・スマイリー三部作をはじめ素敵なエスピオナージュを提供してくれた翻訳者だった。感謝とともにご冥福をお祈りしたい。
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新しくiPhoneSEが発売になったので最新機に替えようと有楽町のビックカメラへ行って見てみたところ外観上これまで使った5と変わらず機種変更の実感が湧かないと急遽いちばんサイズの大きい6sPLUSというのにした。すると二三日して値下げの記事が出て二週間以内なら新価格が適用されるとあった。九千円戻って来るのを期待して銀座のアップル店へ寄ったところ、新価格の適用はSIMフリーの機種で、こちらはSIMロックなので適用外ですと言われた。全然理解できないお言葉だったが返金がないのはよくわかった。そうなるとiPhoneにこだわる必要はないので気分を変えて有楽町へ戻り、マリオンで「レヴェナント:蘇えりし者」を観た。ストーリー、映像ともに堂々たる作品だ。
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情報機器といえば、過日シチリアシラクーサの教会でカラバッジョ「聖ルチアの埋葬」(下の写真)を見たので、電子ブックのカラバッジョ画集を百六十円!で購入。現存するすべての作品をカラーで収めていて、さっそくAmazonのKindleFireで鑑賞に及んだ。

ところが音楽を聴きながら絵画を眺めているうち突如Wi-Fi が落ちて音楽は中断し、画集も動かず、そのまま固まってしまった。シャットダウンして再起動させてみたが変わりなく、仕方がないのでAmazon に電話すると女性社員が対応してくれて、OSの再インストールをしてみましょうとおっしゃる。「OSの仕組みも再インストールのやり方もまったくわからないんですけど」と言うと「いいですよ。わたしの言う通りにして下さい。まずパソコンを立ち上げましょう」「立ち上がりましたか?それではパソコンとKindleを繋いでください」と幼稚園の先生が子供をあやすように教えてくれ、ようやく再インストールができて音楽を聴きながらのカラバッジョ鑑賞に復帰できた。そのかんおよそ三十分、情報リテラシーの極度に劣る老人相手に優しく、親切に、粘り強く対応していただき至極感謝したしだいだった。
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レオナルド・シャーシャ『真昼のふくろう』(竹山博英訳)という小説を読んだ。訳書は1987年に朝日新聞社から刊行されているが原書は1961年に出版されていて、訳者の解説には批判的立場からマフィアを扱った作品として、記念碑的な意義をもつとあった。
このころシチリアでは大土地所有制に基づく農村のマフィアがすたれ、新たに都市のマフィアが勃興していて、マフィアはそれまでとは異なる貌を見せはじめていた。
シチリア島内陸部の農村で、ある建設業者が殺される。入札や献金を通じてマフィアと関係するのを拒否したことに起因するのは明らかだったが目撃者はいても証言をする者はいない。捜査にあたる「本土もの」の憲兵大尉はたれこみ屋を使って事件の解明に努めるが、この男も殺されてしまう。陽光まばゆいシチリアではふくろうの夜目も役に立たず、事件はなんとか裁判にまではこぎつけたものの憲兵大尉は無力感に陥ってしまう。法廷では「政府の見解では、マフィアとは、社会党共産党の作り出した想像の産物にすぎません」といった証言もあった。小説ではあるが六十年代初期にはこうした証言がまかり通っていたのだろう。
先日見たカラバッジョの画集には、画家のシチリア時代の最後の作品「生誕」の説明として、もとオラントリオ・ディ・サン・ロレンツォというところが蔵していたのが、マフィアの盗難に遭い、現在も行方不明とあった。
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Amazonミュージックが嬉しくて好きなジャズばかり聴いていたところ、いささか変調気味となった。そこへカラオケ付き飲み会のお誘いがあったので勇躍して臨み、回春を図るべく久しぶりに軍歌を歌った。わが軍歌のベストスリーは「空の神兵」「出征兵士を送る歌」そして女の側からの「明日はお立ちか」である。
翌日YouTube小唄勝太郎の「明日はお立ちか」を見た。「明日はお立ちか、お名残り惜しや、大和おのこの晴の旅」。テロップには当時六十六歳とあるからわたしが大学生のころの映像で、当時はずいぶん婆さんだなと思ったものだが、いま自分がその年齢になってみると、勝太郎姐さんの声の張りはたいしたもので、翻ってわが声の衰えが情けない。
横井也有『鶉衣』に物忘れの翁の話がある。いまふうに言えば、物覚えが悪いだけで、健忘症とか認知症ではないと翁は言う。朝読んだことは夕べには忘れているから、昔頂戴した手紙はいつも新鮮で、本も二、三冊で済みます、とも。この人、声の張りの衰えにはどのような抗弁を用意していたのだろう。