池井戸潤の小説に拍手!

第一次世界大戦後のドイツでは、敗戦は善が悪に浸食され、凌駕されたためだったとの議論があり、国家を内部から崩壊に導いた諸悪への批判が行われた。健康のために煙草と酒を控え、適度な運動をせよとのキャンペーンもそのひとつで、酒も煙草も嗜まない菜食主義者ヒトラーもこれを唱導したが、さすがに総統を神と崇める人々のあいだでも不評で、ヒトラーもあくまで意に沿わせるほどの気はなかったようだ。それに、ヒトラー自身、適度な運動をしていたとは聞かない。
健康のために煙草と酒を控え、適度な運動をせよというのはいま世界共通のよびかけになっているが、そこからの方向によっては「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているやつの医療費はおれたちが払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」(麻生太郎副総理)となる。仮に健康に悪い生活をしている人の医療費を増やすとなると、生活全般の調査が必要となるから、そこに待っているのは監視社会であり、全体主義の世界にほかならない。といったことをTwitterでつぶやいたところ、ある方から以下のおたよりをいただいた。
トラウデル・ユンゲ私はヒトラーの秘書だった』によれば、側近や秘書たちはヒトラーの前では絶対に煙草は吸わず、彼がいなくなると、コソコソと吸っていたそうです、不良高校生か!この本では、運動については特に触れられていなかったようです。秘書たちとの食事の際、ヒトラーだけ肉を食べず野菜だけだったそうです。そして、食肉処理場を見学に行った話をして、牛や豚が如何に可哀想だったかを語ったそうです。ヒトラー、あんたがそれを言うか!」
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校則についてはいろいろな議論はあるが、わたしは徹底して守らせる立場にあった。授業は、主体的学習とか考える力とかの前に、まずはおとなしく教師の話を聞くよう、あえていえば、しわぶきひとつない教室を求めた。これには視野が狭く、柔軟さを欠き、融通の効かない性格が多分に作用している。そんなわけで悪ガキの映画は腹が立つのがいやで避けてきた。いくら識者が不良精神は輝いていたなどと論じても、不良も非行も望ましいものではない。
そんなわたしが「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」をみた。予習をしていたらパスしていたかもしれない。
二00八年に発生したサブプライム住宅ローン危機の余波に苦しむ貧困層を活写した作品で、ディズニーワールドに近い、低所得層ばかりが住む滞在型のモーテルにいるシングルマザーや六歳になる児童たちの生活ぶりに、はじめは、なんだ、こいつら、悪いことばかりしやがってと憤っていたのが、だんだんと身につまされてしまった。
アメリカの低所得層の現実を、精神面も含めリアルに描いた秀作だ。六歳になるムーニーを演じた子役は演技とは思われないほどで、悪ガキ嫌いも引き込まれた。

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映画「空飛ぶタイヤ」の冒頭、走行中のトラックからタイヤが突然外れて凶器と化し、歩道を通行中の主婦を死亡させる。運送会社は整備不良を疑われ、世間から激しいバッシングを浴びた。やがて類似の事案が指摘され、トラックの構造に欠陥があったことが疑われるようになる。
謎解き、企業のあり方、関係者の相剋を組み合わせたストーリーテリングは素晴らしく、「超高速!参勤交代」シリーズの本木克英監督の気を衒うことなく淡々粛々とした運びにも好感が持てた。
現代日本の文学事情にうとく「空飛ぶタイヤ」の原作者池井戸潤氏は名前だけ知る作家だったが、この映画で原作を読んでみたくなり、本作や『オレたちバブル入行組』など数点を注文した。半沢直樹のドラマをみたことはなく、まずは活字でのお付き合いだ。
わたしにとって映画は現代の潮流を知るための最高の案内役である。

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池井戸潤空飛ぶタイヤ』(実業之日本社文庫)を一気読みした。読み終えたときは、八百二十頁余りの長篇がこんなに早く終わってしまって残念、といった気持だった。単行本は二00六年の刊行だから自分がどれほど世間の流れに昏いかがよくわかる。
空飛ぶタイヤ』の主人公は赤松徳郎という中小の運送会社の社長。タフで優しいハードボイルドの系譜を引く人物像、これに実業の世界を生きる実直が加わる。配する自動車メーカーの沢田や銀行員の井崎もタフで、自分の信ずる職業倫理の持ち主だ。比較して悪役側がやや単純だがそのぶん勧善懲悪の分かりやすさがある。
映画に先行してWOWOWがテレビドラマ化しているのを知り、Amazonビデオを検索したところしっかり収められていてさっそく視聴に及んだ。大感謝。
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池井戸潤空飛ぶタイヤ』に続き『七つの会議』を読了。こちらも一気読みだ。「時さえ忘れて」というジャズのスタンダードナンバーがあるが、時を忘れた無職の年金老人は気がつけばスターバックスで三時間近く読みふけっていたのだった。
ラソンで、好きな女性や映画のことを思っているうちに、ふと、こんなに距離を伸ばしたのかと気づいたりする。これぞ、時さえ忘れた快調のランで、読書も同様だ。
民間企業に勤めた経験がないので『空飛ぶタイヤ』『七つの会議』は物語の面白さとともに企業のあり方や官民の比較についての関心も喚起された。
このあと『下町ロケット』と半沢直樹シリーズが控えていて、遅ればせではあるけれど、しばらくこの作家のマイブームが続きそうだ。
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池井戸潤下町ロケット』を読み終え、いよいよ半沢直樹シリーズに突入だ。
これまで読んだ限りでいえば、この作家は経済活動における公正を重視していて、それを損なう連中と戦った末に、結末では公正が確保され、活かされるから、おのずと読後感はさわやかだ。
空飛ぶタイヤ』や『下町ロケット』がベストセラーとなった背景のひとつに経済活動において公正さを大切にしたいとする人々の意識が考えられる。アンフェアにたいする怒りであり、この点で池井戸作品は一服の清涼剤である。
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「仕事は二の次で余暇を楽しめればいい、そう考えたこともある。しかし、一日の半分以上も時間を費やしているものに見切りをつけることは、人生の半分を諦めるのに等しい。誰だって、できればそんなことはしたくないはずだ」。池井戸潤『オレたち花のバブル組』より。
銀行の人事で、居場所はないと見極められ、取引先の中小企業へ出向させられた男の感懐で、このあと「いい加減に流すだけの仕事ほどつまらないものはない。そのつまらない仕事に人生を費やすだけの価値があるのか?」と続く。
職種は違っても職業人生活四十年のわたしもこの気持はよくわかる。
せっかく仕事をするからにはできるかぎり立派に果たしたいと考えながらも、別の時間には、下手に情熱を傾けず、手堅くやればよいと思ったりもした。自己判断では真摯な社会人というには趣味人の要素が強かった。その趣味を仕事に活かせる職種だったのがいささかのなぐさめである。
曲がりなりに真面目に、お堅く、そして曲がることなく貧乏した。
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『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』と手許にある半沢直樹シリーズを読み終えた。
起伏のあるストーリー、テンポのよい語り口、引き込まれる会話、半沢直樹とそのご一統は理性と度胸を兼ね備えた魅力を放ち、不公正との闘い、熾烈な情報合戦はスパイ小説の趣をもつ。敵役は政界、官界にわたり、構えの大きいモダンな講談といってよく、クライマックスでの「倍返し」は東映任侠映画のラストを思わせる。
息つく暇もない池井戸潤ラッシュと言いたいところだが、無職渡世の老人は金こそないけれど息つく暇は十分にある。
半沢直樹は『空飛ぶタイヤ』の赤松徳郎とおなじくタフで、敵には非情、つまりハードボイルドの系譜に連なる。白馬の騎士や都市の探偵の跡を継ぐ連中がここでは中小企業を経営し、ビッグビジネスに奉職している。
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ますます歌が下手になっている気がする。気がするというのは柔らかな言い回しで確実に下手になっている。昔はけっこうやるじゃないかと思ったこともあったのに、いまは皆無で、声量は落ち、息遣いはまずく、だったら歌わなければよいのだが、嫌いじゃないから困ったものだ。
池井戸潤『果つる底なき』に「私の左隣の男が歌い始めた。ところどころ音程が合っているが、大半は半音以上ずれる。ストレス発散はいいが、聞かされるほうにストレスが溜まる」というくだりに、自身のカラオケの実像を思いドキッとした。
ちなみにわたしがいまカラオケでよく歌うのは、古くは石原裕次郎「赤いハンカチ」、浅丘ルリ子とのデュエット「夕日の丘」、新しいところでは「シクラメンのかほり」と「桃色吐息」、といっても前者、布施明のシングル盤リリースは一九七五年、高橋真梨子のそれは一九八四年である。
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某日、午後九時のNHKニュースで、男性キャスターがネルソン・マンデラ氏について触れながら、多くの難民を受け入れてきたヨーロッパで、いま平等や寛容の価値が試されていますと語っていた。異論はないがわだかまりは残った。
けして非難しているのではなく、移民、難民問題に直面していない日本で、ヨーロッパの対応について云々することの難しさをあらためて感じたのである。仮にどこかの全体主義国家が崩壊して日本に多くの難民が押し寄せてきたとき、NHKは、いま日本の平等や寛容の価値が試されていますといった当たり障りのないコメントで済ませられるのだろうか。
わたしは、立場を明らかにし、そこから現実を切り取り、主張を構成演出するよりも、カッコつきの不完全ながら客観報道に努めるほうがまだマシだと考えているのだが、それはともかく「旗幟鮮明」には慢心と視野狭窄、「客観報道」には当事者意識を欠いたお気楽という落とし穴がある、というのがわが偏見である。