ドイツ連邦議会議事堂前で

一九三三年二月二十七日夜、ワイマール共和国の国会議事堂が炎上し、事件はヒトラーが独裁権力を掌中にする重要な契機となった。
炎上した議事堂が完全に修復されたのは一九九九年、東西ドイツの統一によりベルリンに首都機能が戻され、かつての議事堂が連邦議会議事堂として用いられることとなった。

放火の実行犯はマリヌス・ファン・デア・ルッベ、オランダ共産党に所属するコミュニストだったが、そのじつナチの手先で、ヒトラーは炎上事件を徹底的に利用して独裁を固めた。
ヒトラーが権力を掌握する過程を目の当りにしたアメリカ人ジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーは「ナチが計画していたまさにそのとおりのことをやろうとしていた共産主義者の放火魔をナチが見つけた、という偶然はほとんど信じがたいが、にもかかわらず証拠に裏付けられている」「ファン・デア・ルッベがナチの手先として利用されたのは間違いないようである」と述べている。(『第三帝国の興亡1』(松浦怜訳、東京創元社
ところが、ルッベは手先ではなかったとの説もあって、長年「ニューズウィーク」誌に在籍し国際報道に従事したアンドリュー・ナゴルスキ『ヒトラーランド』(北村京子訳、作品社)には、事件後まもなく放火犯はナチの手先で、大規模な弾圧を行うための口実づくりに利用されたとの憶測が飛び交ったが「後年、多くの歴史家によって、ルッベはやはり単独で犯行に及んだと思われるとの結論が出されている」とある。
同書を読む限り、国会議事堂放火犯はナチの手先ではなかったとする説が有力のようだが、反対の説が完全に否定されたわけではないらしい。
およそ半世紀まえの高校の授業ではナチの手先が放火したと習い、高校の教員になり世界史を担当したときにはわたしも同様の話をした。いまの高校生はどんなふうに教えられているのだろう。