北のカサブランカ(其ノ二)

杉原千畝が日本政府の意向に反してユダヤ系を中心とする難民たちに発給したヴィザはこんにち「命のヴィザ」と呼ばれている。ヴィザリストにあるのは二一三九名だが、杉原幸子夫人の著書『六千人の命のビザ』(大正出版)にあるようにおよそ六千人の命が救われたというのが定説となっている。親のパスポートに子供が列記してある事例もあれば、プラハへの転勤が迫るとともに杉原はヴィザリストへ載せる間を惜しんで発給業務に専念したという事情もあったようだ。下はカウナスの杉原記念館の机上にあるヴィザリストで左側に番号が附されている。

このリストやヴィザを眼前にしたときはまさしく歴史が迫って来ている感じだった。発給されたヴィザはいうまでもなく最重要の史料だが、持主は「命のヴィザ」ゆえに容易には手離そうとしないため研究上のネックとなっていた。それが近年デジタル画像技術の発達で、現物の提供には応じられないが画像でよければと提供してくださる方が徐々に現れるようになったという。(白石仁章『杉原千畝』)記念館で見たヴィザもそうした一枚だっただろう。

杉原が発給したヴィザははじめすべて手書きだったが、できるだけ多く発給するためポーランド人の手により杉原の直筆署名を模したスタンプが作られた。こうした事情が明らかになったのにもデジタル画像技術の発達が寄与している。
杉原は第二次世界大戦終結ブカレストの日本公使館で迎えた。ソ連軍に身柄を拘束された杉原一家が帰国したのは一九四七年(昭和二十二年)四月、そして六月七日に外務次官からの退職通告書が届いた。こうして「命のヴィザ」で難民を救った杉原は国策に反したとして外務省を追われた。しかも失職覚悟の「命のヴィザ」が知られるようになったあとも旧外務省関係者からの敵意と冷淡は続いた。
日本政府による公式の名誉回復がなされたのは杉原の命日(一九八六年七月三十一日八十六歳)から十余年経った二000年十月十日だった。その日の河野洋平外務大臣の演説には「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です」とある。
リトアニアに行くまで知らなかったが、ここには杉原千畝を讃えるモニュメントとしてカウナスの杉原記念館にくわえもうひとつヴィリニュスに杉原桜公園がある。外務省のせめてもの償いかと思ったが、石碑に「故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ、早稲田大学在学中に日本国外務省の留学試験に合格しハルピン学院に学び、その後外交官となった。1940年リトアニア共和国領事代理の時代に、身近に迫る戦争の危機の中にありながら、必死の覚悟と信念を以って、亡命ユダヤ人約6千名に対して、1ヶ月にわたって査証を発給しつづけ、彼らの生命を救った。/これは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され、永遠に語り継がれるべきものである。ここに早稲田大学は、校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するとともに、リトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり花咲くことを祈念して桜の木を植樹するものである。/2001年10月2日 早稲田大学」とあるように杉原の母校である早稲田大学が石碑の建立と桜の植樹を行った公園だった。
わが母校の早稲田大学もなかなかよいことをしているとめずらしく感心しながらも、日付が外務省による名誉回復より前であればもっと価値があっただろうにと思うのだった。